なおちゃんと私

中学生の時、私は吹奏楽部に入っていた。
2つ下の後輩に、演奏は下手(というかまず楽譜が読めない)、会話もあまり通じない、当然勉強もできない、更に言うと見た目も制服の着方も冴えない女の子がいた。もしかしたら知的障害の部類に入る子だったのかもしれない。直子(仮名)というその子は、みんなから「なおちゃん」と呼ばれていた。先生もそう呼んでいた。
なおちゃんと私はパートが違ったんだけど、同じパートの子は何を言っても通じない、下手くそななおちゃんにキレ気味だった。部内で見ている限り、学年を問わずあからさまになおちゃんをバカにしたり、からかうような態度を取る子も多かったように思う。

で、私はピアノを習ってて(田舎の学校だったのでそういう生徒はクラスに1人か2人だった)、音楽が得意だったので、なおちゃんに楽譜の読み方を教えることになった。なんでそんなことになったのかは覚えていないが、パート内の険悪な雰囲気を見るに見かねて、みたいな流れだったような気がする。
教えてみると、確かに飲み込みが悪くて、説明が全然通じない。ピアノを習い始めたころのことを思い出して伸ばす音の数だけりんごを塗りつぶさせてみたり、全休符と2分休符を絵にして長さの違いを教えたり、自分なりに工夫した。同じことを繰り返すのは苦にならなかったし、なおちゃんが覚えないなら私の教え方をなんとかしなければと思った。

私はなおちゃんに対して全然イライラとか腹が立ったりしなかった。
私のそういう態度に同級生は「えらいねー」「優しいねー」としきりに言った。
それを聞くたびに私は違和感を覚え、自分のこの気持ちはいったい何なのだろうみんなと何が違うのだろうと疑問に思っていた。

「優しい」というのは違う気がした。確かにわたしはなおちゃんにキレたりはしなかったし、穏やかに接してはいたが、特別優しくしていた覚えはない。教える時間以外にはなおちゃんと口をきくこともなかったし、なおちゃんも別に私が好きになったりはしなかったと思う。自分が「優しい」というのはなにか胡散臭くて嫌いだった(今でもそういうところはある)から、そう言われるたびに少々うんざりしていた。

ではこれはなおちゃんや、同級生に対する優越感なのだろうか?
例えば、国語が得意なもの同士でテストの点を競い合い、自分が一位を取れたときとか、思いがけずそれほど得意ではない数学で上位に食い込んだりして「あいつやるじゃん」と一目置かれた時、ちょっと鼻が高くなる。それはたぶん優越感だ。
例えば音楽や本の好み。あの子にはわからないだろうけど、と思うとき胸にあるのもたぶん優越感だ。
でも、なおちゃんへの気持ちは、それとは違う。なんというか、もうちょっと自分とは別の世界という意識がある。なおちゃんは、私の仲間というのとはちょっとちがう。
だから腹が立たないのだろうか。でも相手を自分と違う世界の人間と見なすことは差別ではないのか。
腹を立てている他の子達のほうが、なおちゃんを同じ地平で見ているのであって、私はなおちゃんを差別しているのだろうか。
態度に出さないだけで、本当はわたしはなおちゃんをバカにしているのだろうか。

同じパートで付き合っていないから、腹も立たないし優しくできるのであって、私はいいかっこしているだけなのだろうかとも思った。
でも、なおちゃんが原因で全体練習が滞ることに、他のとき以上に腹が立つということもない。
もしかして「他の子と違ってなおちゃんに冷静に接することが出来る私」に酔っているのだろうか。

私はなおちゃんを差別してる?バカにしてる?自分に酔ってる?
自分の胸に問いかけてみたがよくわからない。今もよくわからないままだ。

結局なおちゃんはめざましい上達もなかったけど、大きなトラブルにもならず、まあなんとなく部活を続け、私の指導もなんとなく立ち消えになって終わった。覚えていないということはたぶんそうなのだろう。

あれは何だったのだろう。とまた考えてみる。

今もやっぱりそれはわからないのだが、改めて考えてみると、今思えばもっとも大きかったのは「興味」だったのではないかと思う。
どうやったら私の伝えたいことが伝わるのか、ひいてはなおちゃんという人間が何をどうやって考えているのかということへの興味。
教え方を考えるのはどちらかと言えば楽しかった。楽しかったというとちょっと違う気もするが、こう教えてみたらこう返ってきた、だから今度はこう教えてみようというやりとりは飽きなかったし、考えれば考えるほどアイディアは出てきた。
教えられる側の自尊心というものもあるから、教え方を易しくすればいいというものではないのだろう。中学生相手にりんごを塗りつぶさせるという方法はちょっとバカにしている気もする。その辺は未熟だったし、結果が出ていないのだからしょせん自己満足で終わったとも言える。
でも、楽譜の読み方という狭い世界ではあったけど、私は私なりになおちゃんを理解しようとしていたのかもしれないと思う。

マイノリティであれマジョリティであれ、自分の体験できない世界、想像するしかない世界というのがある。
そういう世界をいっぺんに肌で感じることはもちろん不可能だ。
できるのは辛うじて空いている穴から片手を差し入れ、その世界に指先で触れることくらいだ。
それでも、指先に神経を集中させて、触れたところのあたたかさや冷たさ、やわらかさや固さ、あるいは触れられた側の反応から何かを知ることはできるだろう。
それをなんとかやりたい、やり続けたいと思う原動力となるのが「興味」だ。
興味だけが先走ると、むやみに穴を広げて体を突っ込みたくなったり、あちこちべたべたと触りたくなったりするから、興味があればいいというものでもないが、興味が足りないと触れていないところまで憶測で触れた気になろうとしてしまうのではないか。それは全く触れない時よりも罪深いことになったりするだろう。
でも、適度な興味を持って未知の世界に向き合う態度はたぶんとても大切だ。
未知の世界にいる相手に失礼にならないかということは本当に難しいが、それにきちんと興味を持っていれば触れ続けたいと自然と思うし、その世界に触れ続けたいと思うなら、その人なりの礼儀正しさは自然とついてくるだろう。もちろん想像力やら判断力やらその他諸々が足りなくて失敗することはあるだろうが、それはどんな場合にも言えることだ。ベストを尽くすことしかできない。

「差別かどうか」というのが差別される側が判断することなのだとしたら、なおちゃんがどう思っているかわからないからもう判断のしようもないけれど、私はあの時の私を認めたい。あなたはきちんと、あなたなりのやり方で未知の世界と向き合おうとしていたのだと。これはやっぱりよくわからないからたぶんとしか言えないけど、なおちゃんをバカにはしていなかったし自分に酔ってもいなかったんじゃないかと思うとも言ってあげたい。
そして、これから向き合うであろう未知の世界に対しても、あのような興味を持って臨めたらと思うのだ。そのやり方に答えなどもちろんないし失敗もたくさんするだろうし、これまでの経験から考えるとその中には取り返しのつかない失敗も残念ながらありそうだけど、自分がちゃんと興味を持てているか、その興味が行きすぎたり足りなかったりしていないかは、いつも確認していたい。
どうか、相手や自分を深く損なうような失敗だけは今後しないで済みますようにと祈りつつ。

胸を射抜く健やかな美しさ〜藤城清治の世界展

会期中にアップしたかったのですが、芸術の森でやってた藤城清治の世界展の感想など。
とにかく手の込んだ緻密で絢爛豪華な影絵に圧倒されっぱなし。
すごいなー天才だなーとバカみたいに口半開きで呆然と見ていくうち、この人の作品の魅力は、技術や才能だけでなく、この人の持つ「精神の健やかさ」にあるのではないかという気がしてきました。

略歴(私が美術館で見たおぼろげな記憶とウィキペディア情報なので詳しいことはわかりませんが)によると藤城さんは、幼少時から才能を認められ、12歳で水彩画やらエッチング油絵やらの英才教育を受け、戦時中は海軍にいたようですが、やっていたのは少年兵とともに行っていた指人形の慰問演芸会、そして戦後まもなく暮らしの手帖の連載を開始し名声がとどろき今に至るという、とにかく芸術一本で生きてきた人なのです。どんな家庭に生まれたのかわかりませんが、どうも「食べるためにやりたくない仕事をする」とか「大病や怪我でブランクをよぎなくされる」とか、いわゆる「挫折」というものが感じられない。
そして更にすごいのは、有名になった作家にありがちな「俺が作りたいのは本当はこんなのじゃない!」という苦悩が全然伝わってこないところ。「銀閣寺」をテーマにした地味な影絵のキャプションには「銀閣寺が大好きで修学旅行生がいない時を狙ってスケッチをする」などと書いてあります。でも正直私は藤城清治といえば、派手でカラフルな作品しかイメージしたことがありませんでしたし、大部分の方がそうじゃないかと思うのです。そんな地味な作品も、絢爛豪華な作品もノリノリで作ってしまう。華やかさを表現した作品と質素さを表現した作品があり、華やかな部分ばかりがパブリックイメージになっていくことにまったく葛藤を見せず「みんなに好かれる作家になりたい」と言い切ってしまえるそのメンタリティは健やかとしか言いようがないと思うのです。商業作家になるべくしてなった人なのだと思いました。

私は音楽や本でも、貧乏とか病気とか苦労とか性格が悪いとか、どこかねじれというか薄暗さを持った人の作品が好きになりがちで、みんな一緒で楽しいねお手々つないでランララン♪みたいなイッツアスモールワールド的な世界観のものってつい斜めに見てしまうのだけど、この方の作品は本当に本当に、心を射抜かれるというか、ねじねじになっていた心を力づくで引っ張りだされられて矯正されてしまったような気がしました。デトックス効果でお肌もすべすべになりそうな勢いです。

震災後の福島をモチーフにした作品もあったのだけど、がれきの山を前にして「むつかしいきびしい挑戦」といいながらも見つめているのは痛ましさよりも自然のたくましさであり、「生きる歓びを感じてくれたら嬉しい」と語っている。「がれきは宝石より美しい」なんて他の人が言ったらぶん殴られそうなセリフも、この人ならなーって思わされてしまう。そのくらい世界への慈しみの気持ちが伝わってくる作品達でした。

ちなみに私が一番好きだったのは、猫と本棚の影絵でした。古びた感じの本棚に並ぶくすんでいるはずの本たちが、この人にはこんなに鮮やかに美しく見えるのがよく題材として出てくるな
北海道の展示は終わってしまったけど、見る機会のある人はぜひに見に行かれることをおすすめします。

クリスマスカード販売中です!

久しぶりにクラフト関係のお知らせを。

ドラクエ企画さんの「クリスマスカードコレクション2014」(クリコレ)に参加させていただきました。

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現在大通公園西2丁目で行われている「ミュンヘンクリスマス市」で2種のクリスマスカードを販売していただいています。
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ネット通販もありますので遠方の方も是非!

今週末からは地下歩行空間でも販売が始まるようです。
素敵なクリスマスカードがたくさんありますので、よろしければのぞいてみてくださいー。

あいがほしいねこ

いっぴきのねこがいました。

ねこはかいぬしのおとこのことがだいすきでした。
ねこはかいぬしのおとこからたくさんあいしてほしいとおもっていました。

あさになってかいぬしのおとこがおきると、ねこはおおいそぎでおとこのところにいきます。
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「おはようございます。きょうもあいをください。たくさんください。あびるほどください」

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ねこはかいぬしのおとこのあいがほしくてたまりません。

「あいをください。もっともっとください」

ねこはにょきにょきのびました。


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「もっともっともっと」

ねこはどんどんのびました。あいがほしくてのびました。


ねこはそのままどんどんのびました。
ねこはどんどんながくなり、かいぬしのおとこのくびにまきついてけがわのえりまきになりました。
えりまきになったねこはいつもおとこといっしょです。
ねこはとってもしあわせです。



ところでねこのいえにはかいぬしのおんなもいます。
ねこはかいぬしのおんなのことはあまりすきではありません。

あさ、ねこのところにかいぬしのおんながやってきます。
ねこはしんだふりをします。
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ねこがかいぬしのおとこのあいばかりほしがるので、
ねこのいえではねこは「あいじん」とよばれています。
「あいじん」は「せいさい」にかくれて「あいびき」をするのだそうです。

ねこはまいにちかいぬしのおとこと「あいびき」をするのをたのしみにしています。
かいぬしのおんなはすこしうるさいけど、ねこはとってもしあわせです。

魚Gメンあらわる

鮭フレークを作ってみようと思い、塩鮭を焼いた。

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においを嗅ぎつけ現れた魚Gメン。

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「そこにあるのはわかってるんですよ」
「隠さず早く出しなさい」

塩鮭だからあげません。

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鮭フレークできあがり。


さっそく食べていたら、
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再び現れた魚Gメン。
「その手に持っているオレンジ色のものはなんですか」

鮭です。

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「その鮭をください」

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「くださいったら」
反対の手が出た。

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「そうですその鮭ですたいへんよろしいその調子その調子」


塩鮭だから少しだけね。



ちなみに普段は箸から直接は食べさせません。
写真を撮りたくてにおいをかがせてしまいました。

さすが魚、他の食べ物とは食いつきが違います。

とっておきフォルダ

2007年ごろに消しゴムはんこというものに出会った。

線画が形になるのが面白くて、猫のはんこばかり作った。

羊毛フェルトに出会ったときは、これで粘土のように好きな形が作れるんだ!とテンションが上がった。

はんこを布に押したり布用絵の具で絵を描けると知ったときもすごくわくわくした。

思いつくままに猫のものばかり作った。楽しかった。

これはという作品のアイディアが浮かびそれを形にするときの興奮は忘れられない。

友達に見せたら「売れるよ」と言われて調子にのり、実際イベントに出したりネットショップを開設したり委託をお願いして販売もした。

 
しかし自分の作ったものに値段をつけて人様の前に出すというのはなかなか気を遣う大変な作業だ。
創作意欲と時間と金額との折り合い。同じものを何度も作らなければならなかったり。
そしてなにより、いろんな人との出会いを通じて、どんなに自分が頑張っても結局才能ある人が作るものには絶対にかなわないという現実がじわじわと染みてくる。
「ものにならない」という現実。
次々とイベントの予定を入れたり注文を受けたりしているうちに、いつの間にか作るのが負担になっていった。
 
作るのをやめてみた。
誰に頼まれたわけでもなく好きでやっていたことなのに、作らなくなったら、正直楽になった。
 
それでもどこかに「作る人」でいたいという意地のようなものがある。
撮りためた過去の作品の写真はうんざりするようなものばかりだけど、たまーにこれはいいなというものもあるので、人に見せるためにでもと気に入ったものだけを集めた画像フォルダを作ってみた。
眺めていたら私も捨てたものじゃないのではないかという気がしてくる。
 
いつかまた作りたくなる日が来るまで、これを眺めて過ごそう。
 
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(生猫の写真も入っているのは人に猫を紹介する時のためでもあるからです)

見る見る見る

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昔のこのような写真が出て来たので、
またやらないかなと思って同じたらいに水を張りスーパーボールを浮かべてみた。
 
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見る。
 
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もっと見る。
 
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飽きる。
 
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見る。
 
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もっと見る。
 
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立ち去る。
 
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見る。
 
 
 
遊びませんでしたが。