「風立ちぬ」で庵野秀明の声が表現したもの。

私は宮崎駿作品に詳しくない。「もののけ姫」くらいしか見たことがない。今回の「風立ちぬ」も夫が見に行くというのでじゃあ見てみるかと思って見に行ってみたという感じだ。

そんな私がこの映画を見てまず思ったのは

宮崎駿って美しいものがとにかく好きなんだな」

ということ。

大正から昭和初期の「古き良き」を凝縮したような世界観。教養があって、礼節があって、適度な裕福さがあって、素敵な夢があって…。描いているのは動乱の時代だが、主人公のいる世界は別世界のように優雅だ。

そして薄幸の美少女菜穂子との恋。もうコッテコテの美しきラブストーリー。二郎の夢の中を飛ぶ飛行機も颯爽としていて美しい。戦闘機だって完全に「美しい」と思ってしまっていることがよくわかる丹念な、丹念な描写。自分が美しいと思うものをこれでもかとつめこんだ映画だと思った。戦争は嫌だと思いながらも戦闘機を心血注いで作ってしまう主人公は宮崎駿そのものだという評もよく見かけるが、宮崎駿の中では美少女も戦闘機も等しく「美しい」存在なのかもしれない。

そしてもう一つ強く感じたのは「庵野秀明の声の違和感」。

場面が幼少期から青年の二郎に変わったときに「ん?だれ?」と思ってしまったくらい幼少期の可愛い声と印象が違う。セリフも棒読み。すんごい違和感。

でも「プロフェッショナル仕事の流儀」を見ると、テストの庵野秀明のアテレコを聞いてすぐに宮崎駿高畑勲は「いいね」となっている。宮崎駿は「声に何考えてるかわからないところがあるからいいよ」と庵野秀明の声を評して言っている。その前には、スタッフに二郎の表情をどうしたらいいか聞かれて「何考えてるかわからない顔」と指示を出している。どうやら二郎は徹底して「何考えてるかわからない人」でなければならなかったようで、そのためにあの棒読みの声が必要だったらしいのだ。その辺を少し考えてみたいと思う。(ネタバレあります。)



主人公二郎はそこそこ裕福な家庭に育ったようだが、倒産した銀行に群がる群衆を人ごとのように車の中から眺めたり、避暑地のホテルで奈緒子とキャッキャウフフできるような、優雅な生活を送れているのは、二郎が爆撃機の製造に関わっているからでもある。友人の本庄が言うように、軍事産業には莫大な金がつぎ込まれる。二郎が飛行機を作りたいという夢を追えるのは戦争のお陰だ。だが同時に飛行機が出来ればそれは兵器となる。

二郎のそのことに関する葛藤は、とにかく描かれない。二郎はただひたすらに飛行機を作る。心血を注いで作る。直接制作にかかわりのない会議は上の空だし、結核の嫁がいるからといって早く帰ったりはしないし仕事を家に持ち込んで結核の嫁の隣で煙草を吸いながら仕事をする。夢の中で高名な飛行機の設計者であるカプローニに「君はピラミッドのある世界とない世界、どちらを選ぶ、私はある世界を選んだ」と言われても「私は美しい飛行機を作りたいと思っています」としか言わない。とにかく飛行機大好きなだけの夢を追う少年のように描かれる。

でもこの状況で何の葛藤もなく夢だけを純粋に追える、そんな人間、いるわけない。そんな二郎の「嘘くささ」を表現するのに庵野秀明の感情のこもらない棒読みが必要だったのではないかと思う。本音を語らず、いつも淡々としていて「何を考えているのかわからない」二郎を表現するのは、感情豊かに演じられるプロの声優より素人のほうが良かったのだろう。

黒川の家から菜穂子が黙って病院へ戻った時「綺麗なところだけ見せようとして」という黒川の妻のセリフがあったが、あれは二郎のことでもあると思う。

殺人に荷担しているということは見せず語らず、純粋に飛行機を作りたいと言う夢を追う姿だけを奈緒子に(だけではないが)見せようとした。超ええかっこしい。

で、そんなええかっこしいの二郎を奈緒子は黙って支える。病気の身でありながら夜遅く二郎が帰って来たら布団から起きてかいがいしく服をたたみ、朝は心配をかけまいと化粧をして二郎を見送る。「仕事をしているあなたを見ているのが好き(だったかな)」と言いきるのだ。二郎の葛藤を知りながら、敢えて触れずに二郎を支え続ける菜穂子。かくして飛行機は無事に飛び、役目を終えた奈緒子は病院に戻り、(恐らく)そこで死ぬ。

そんな二郎が崩れるのはラストシーンの夢の中の場面だ。夢の中に現れた菜穂子が二郎に「生きて」と言い、二郎の「ありがとう、きみのおかげで…」と返すところだけは庵野秀明は「演技」をしている。その場面だけが、二郎が感情をむき出しにする唯一の場面だ。表面的には「夢追う少年」として描かれていた二郎はその場面で初めて「葛藤」をあらわにする。ただの「病気の娘とのはかない純愛」かと思われていた菜穂子との関係も、夫婦として菜穂子が二郎を支えていたのだということが見えてくる。二郎の胸には、奈緒子を自分の夢のために都合良く利用したのだという罪悪感もあったのではないか。

零戦が完成し、それによって多くの命(と飛行機)が失われる。夢の中でカプローニに「一機も帰って来ませんでした」と語る二郎の胸にあったのは「自分は何をやってきたのだろう」という底なしの空しさだったのではないだろうか。恐らく生きていることの意味を見失うほどに。そこに菜穂子の「生きて」が効いてくる。

だからこの「ありがとう」に関しては、想像だけど、宮崎駿も「ここだけはッ!庵野くんッ!感情をッ!」と渾身の演技指導をしたに違いない。そのくらいそれまでのセリフとのギャップを感じる。

「プロフェッショナル仕事の流儀」で宮崎駿は「飛行機を作りたかったんで戦争やりたかったんじゃないとかね、そういういいわけは一切するのやめようと思ってる」と語っている。二郎の葛藤は「敢えて」描かれなかったのであり、それを唯一表現したのが最後の夢の場面だったのだろう。

戦争の悲惨さを描くのではなく、悲惨な時代を生きた人を描く。最終的に「生きた」を感じさせたという意味では、途中まですんごい違和感はあったけど、庵野秀明の起用は悪くなかったのかな、と見終わったときには思えた。