猫が死んだ次の日のこと。

15年生きた猫が死んだ日、私はほとんど泣かなかった。すでに覚悟はしていたし「ペットは自分の人生を通り過ぎていくもの」と思っていたからだ。涙ぐむ夫にも達観した調子でそう話した。

翌日、子猫の時代を一緒に過ごした昔の恋人にそのことを知らせた。彼からは付き合っていたときからは想像も出来ないような過不足のない、礼儀正しい返信が返ってきて、私は急に寂しくなった。彼と過ごした時間はもちろん、猫と過ごした時間も、もはや通り過ぎてしまって私の心の中にしかないのだと急に気がついたのだ。「誰かが自分の人生を通り過ぎてしまう」ことの悲しさに昨日の私は気づいていなかった。

私は昨日一日猫の亡骸を安置した部屋に入った。生前猫がいたことなどほとんどなかった部屋なのに、確かに猫のにおいがした。

通り過ぎてなど欲しくなかった、生きていて欲しかった。いつまでも柔らかであたたかな身体でいて欲しかった。感情が一気に襲ってきて、私は声を上げて泣いた。

しばらくするとメールの受信を知らせる着信音が鳴った。メールは先ほど礼儀正しい返信を送ってきた昔の恋人からで、猫の写真があったら欲しいとそこには書かれていた。

一匹の猫が自分の人生を通り過ぎたことを悲しむ人がそこにもいることを、私は知った。

ドライな自分を気取った昨日の私に、少しは泣いてよ、そんなに怖いのなら救いもちゃんと用意するからさ、と猫が言ったような気がした。

この人の閾

この人の閾 (新潮文庫)

この人の閾 (新潮文庫)

3〜4年前に買ったような・・・

人と会話するとき、私たちは相手の言った言葉や口調、表情などから相手の考えについていろんな可能性を頭に浮かべながら会話を進める。会話の流れによって最初の判断を修正したり、書き換えたりもする。

主人公が会話しながら考えるいろんなことの中には、そういういろんな可能性が絞り込まれないままふわふわと漂っていて、そういう会話のしかたはリアルなような気もするし、あまりにもふわふわしすぎのような気もする。相手の意見を断じるようなことはほとんどない(そういう相手の物言いは「何でもかんでも十把一絡げにして雑に結論づけてしまう」と主人公をがっかりさせる)から会話の中に劇的なことは何も起こらない。流れるように会話はすすみ、そのまま何となく物語は終わる。退屈だと感じる人もいるかもしれない。でもそれは、喫茶店かどこかで他人の会話をぼんやりと聞いているような心地よさがある。

この本以降保坂和志は何冊も読んだので、もう文体に慣れてしまって、今読んでもさほど違和感はないのだが、最初は「こんなに主人公がうだうだと理屈をこねながら進む小説があるのか」と驚いた記憶がある。

プールサイド小景

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

「結婚」のラストの

プールサイドにしゃがんでいる二人の目の前で、ヨットはしばらく不慣れな様子で水の上にためらっていたが、そのうちにあるかなきかの風の動きを敏感に捉へて、スーッと走り出した。

から「プールサイド小景」の冒頭の

プールでは、気合いの掛かった最後のダッシュが行われていた

へのつながりがまずよかった。アルバムの曲と曲が心地よくつながるときの感じに似ている。

私が読んだのは図書館で借りた昭和30年刊行の単行本だが、文庫などでもこの順序は保たれているのだろうか。

「プールサイド小景」の夫は突如会社を首になってしまう。今ならリストラということばもあるが(この夫の場合は会社の金の使い込みが原因なわけだが)、当時であれば突然の失職は今以上の一大事だろう。失職を機に妻は夫の知らなかった会社での姿や思いを発見していく。そんな夫に不信や疑いを抱きつつも、最後は「帰ってきてさへくれれば・・・」という祈るような思いへと変わっていく。

夕風が吹いてきて、水の面に時々こまかい小波を走らせる。やがて、プールの向こう側の線路に、電車が現れる。勤め帰りの乗客たちの眼には、ひつそりしたプールが映る。いつもの女子選手がいなくて、男の頭が一つ水面に出ている。

というラストは印象的。妻がようやく知ることとなった夫の孤独感を表しているようだ。しかし他の作品を含め作者の描く家族の姿はいつもさりげなくも強い絆で結ばれている。「夕べの雲」や「桃李」「伯林日記」のように。

「帰ってさえ来てくれれば」と願うことのできる妻と、何かに怯えながら会社勤めを続けていたことを遅きに失しながらも妻に語れる夫。妻の睫毛の愛撫はプールに立つさざ波のように淡く優しい。何があろうときっとこの夫婦は再生していけると感じさせられた。