1月5日の絶望

年末には、大掃除をする。
大掃除をすると、家がとても綺麗になる。
とても綺麗になった家で新年を迎える。実にすがすがしい。
正月なので、とても綺麗になった家で雑煮の餅を焼く以外に特に家事もせず毎日を過ごす。実にすがすがしいし、実に楽ちんである。
ところが、1月4日あたりで、すがすがしい気分に陰りが見えてくる。
「微妙に家がほこりっぽい」
「なんか洗濯物がたまっている」
「あんなに磨いた洗面所の鏡がしぶきだらけ」
などということに気づき始めるのだ。
あんなに大掃除を一生懸命やったはずなのに、これはいったいどういうことだろう。

そう、大掃除を終えたとき私達は「もうこれで永久に掃除をしなくていい」くらいの錯覚にとらわれてははいないだろうか。それくらい年末の大掃除とは達成感のあるものと言っていい。「家がぴかぴかになった!」と言う事実は「これからも家は永遠にぴかぴかである!」という「幻想」を我々に抱かせる。
しかしその幻想はわずか3日で崩れ落ちるのだ。「家はぴかぴかにする努力をしない限りぴかぴかではなくなる。しかも意外に早くぴかぴかではなくなる」なのである。

年末のテレビで「階段を上るついでに手すりを拭くなどして汚れをためない、ついで掃除で大掃除を楽に!」みたいなことをやっていたが、階段の手すりなんてそんなに汚れがたまるものだろうか?うちはマンションで階段がないのでわからないのだが、そこはそんなに掃除をするのが苦になる場所とは思えないのだが。私が主に掃除をめんどくさがるのはコンロ周りなのだが、これも「ついで掃除」でなんとかなるのだろうか?使った後コンロを拭くくらいのことはするが、火元の五徳とかゴミ受け(?)の焦げ付きなどに何かの「ついで」はあるのだろうか。テレビでは取り上げられていなかったようだが。クウネルなどのキッチン本を読むと「五徳は毎晩使った後洗剤につけておきます」などという記述を見かけることがあり、そうすれば確かに五徳は綺麗なまま保たれるのは確かであろうが、日々そんな意識の高いことが出来るならそもそも大掃除で変な幻想など抱かないのである。
そもそも「日頃からきちんと掃除をしておいて大掃除は軽く」なんていうのは毎晩五徳を洗剤につけておけるような意識の高い主婦の生活のことであって、普通は年末の大掃除のたびに大騒ぎをして家中を磨き「これでもううちは永遠にぴかぴか!」という幻想にまどわされ、1月4日辺りに掃除とは生きている限り決して終わることのない毎日の単調きわまりない行為の繰り返しなのだという人生の無常という残酷な現実を突きつけられ、絶望的な気持ちで洗濯機を回し掃除機をかけるのである。それが1月5日の私の姿である。掃除とは絶望なのである。