私にとっての「村上春樹」

「好きな作家は?」と聞かれたことはないが、もし聞かれたら「なんだかんだで村上春樹かなあ」と答えると思う。しかし「おすすめの小説はありますか?」と聞かれたらまず村上春樹の作品は選ばないだろう。正直に言うと村上春樹の作品はほぼ全て読んでいるが、ストーリーとか登場人物について人に語れるほど細かいことを覚えていない。しかし私にとって村上春樹は単なる「好き」とは違う明らかに「別格」の作家なのだ。

昔から本の好きな子どもだったと思う。幼い頃は近くのショッピングセンターにある「子ども図書館」に親が頻繁に連れて行ってくれたので、絵本やら図鑑やら児童書やら紙芝居やら、手当たり次第に借りて読んでいた。小学校の低学年で家にあった仁木悦子赤川次郎推理小説にはまったりしていたし、長いドライブには必ず大量の本を車に持ち込んでいた。外出先でDSに熱中する今時の子どもと大して変わらない。
中学生の時仲の良かった友達と「新潮文庫の100冊」を何冊読めるかと競い合ったことがある。太宰治カフカなどのいわゆる古典に出会ったのはそれがきっかけだ。その一方で吉本ばなな村上龍などの「はやりもの」も読んでいた。その中の一つが「ノルウェイの森」だった。村上春樹の作品を読んだのはたぶんそれが最初だ。
たくさん読んだ本の中で「ノルウェイの森」が特に好きだったという記憶はない。ただ親が村上春樹を好きだったので家には蔵書があり、自然とその後も著書を読むようになっていった。ただ他にも好きな作家は何人もいたし「一番好きなのは村上春樹」とは思っていなかった気がする。

だが、いつのころからか「村上春樹の作品を読む」というのは他の小説を読むのとは少し違った意味合いを帯びてきたように思う。それは「物語を読む」というより「自分というものを肯定される」という圧倒的な経験だ。
本や映画などについて「この作品に出会わなかったら私は生きていなかったかもしれない」「辛かったときの私をこの作品が救ってくれた」という話をたまに聞く。私は村上春樹の特定の作品についてそういうものを感じたことはないのだけれど、彼の作品を長い間かけて何冊も読み続ける中で少しずつ「こんな時にこんな風に感じていいんだ」「私の感じ方は正しいと思っていいんだ」という自己肯定感のようなものを得ていったように思う。
ストーリーや設定に不満を抱かなかったわけではない。SFやファンタジーをあまり好まない私としては「いきなり羊男?なにそれ?」とか「やみくろってなんだよ、なんかずるくねえか」とか「脳のシャッフリング?は?」(すいませんうろ覚えなんで何か間違ってるかも)とか思わないではなかったのだけど、どんな設定の物語でもそこにいる登場人物の振る舞いや心の動きは私を裏切ることがなく、私の感情や価値観を確実に肯定してくれた。その圧倒的な肯定感は親からも与えられないものだった。それは私が世界を見るときの思考の枠組みとなった。更に言えばしかもそこには丁寧に作られたおいしそうな食事があり、手触りのいい上質な洋服があり、秩序の保たれた居心地のいい部屋などもあるのだった。それは濡れたおむつを替えてもらったり、空腹を満たしてもらった赤ちゃんが自然と感じるような、「快」の原点として私の中に根付いている。
そして文体そのものがとにかく「肌に合った」。最近別な作家の本を読んでいて「なんか村上春樹っぽいな」と思うことがあったのだけど、よく考えた結果、その作家の作品の何かが村上春樹に似ているというよりは、私の中で「読んでいて心地いい」が「村上春樹っぽい」という言葉で表現されているのだという結論に至った。専門店のカレーを食べて「このカレーうまい!母ちゃんの作ったカレーみたいだ!」と言っているようなものでいかにもバカっぽいので、この辺はちょっと気をつけていかなければいけないと思っている。

ある程度大人になって、自分の親を客観的に見るようになり、自分が与えられなかったものについておぼろげながら感じることが出来るようになったときに私の頭にあったのは「自分のことは自分でしつけなおさなければいけないな」という考えであり、その原点となったのは「ノルウェイの森」の緑が家の料理がまずいので自分で料理の本を見て一から料理を覚えたというエピソードだった。親への思いがそれで全て整理されたわけではないが「私はあんな親のようにはならない!」という反動から生まれる気持ちではなく、もっと静かに自然に「親から得られなかったものは自分で意識して身につけていくものだ」と思えたのは、間違いなく村上春樹のお陰だったと思っているし、それは私の人生においてすごく役に立っている。

そういった意味では私にとっては村上春樹はある意味で親以上の「親」であり、新作を読んだり既刊を読み返すのは「割と良好な関係を築いてきた親の住む実家に帰る」ようなものだと思う。そこには不満も少なからずあるのだけど、そこでしか得られない「そうそう、この感じ」という心地の良さがあり、何かの折には「また帰りたいな」と思える、そういう場所があるだけでなにか安心できる、そんな場所。
「あんな都合のいい話があるか」という村上春樹評を聞くこともあるけれど、私にとってはその都合の良さもまた「現実ではあり得ないほど都合のいい理想の実家」となるのだ。

私にとってそういう存在である作家が、世の中の多くの人に受け入れられる作家であったことは、たぶん結構幸運なことだったんだと思う。これがもし団鬼六とかだったらと考えるだけでも恐ろしいじゃないですか。言い出せば破綻はいっぱいあるけれど、まあそれなりに「まっとう」な大人にしてくださって本当にありがとうございましたと言いたい。
というわけで今後も新刊が出たら迷わず発売日に本屋に走ると思うんですが、こういうのもハルキストって言うんですかね。巷にあふれる熱い村上春樹評を見ると「すいませんよくわかりません第一覚えてないし」となんだか申し訳なくなってしまうのですが。