深い深い、池の底で

何年か前の夏、仕事の研修で、京都に行った。
ちょうど仕事に行き詰まりを感じていた時で、人の話を聞けば聞くほど、落ち込んだ。成功話はもちろんのこと、失敗談を聞けば「失敗をさらけだす勇気が私にはない」「そもそも失敗するほどの仕事もしてないし」と落ち込むし、休憩中の雑談を聞けば「私には職業上の仲間もいない。人をバカにしてばっかりでまともに関係も作れないんだ」と落ち込むし。最悪の卑屈スパイラル。
半日の研修を終えて会場を出たら、真夏の太陽の光がぐさぐさと刺さった。勝手知ったる街ならば地下の喫茶店にでも入るところだが、ここは京都。右も左もわからない。ぼーっとした状態のまま、なんとか来た道を思い出し、逃げるように地下鉄に乗った。
土曜日の昼下がり。特に予定も入れていなかった。京都に来たとはいえ、歴史的名所に興味はない。友達もいない。予定はからっぽ。私もからっぽ。卑屈スパイラルのどんぞこで、身も心も、路頭に迷っていた。

おぼろげな記憶を頼りに、中心部と思われる駅で地下鉄を降りた。
地上には出たくなかったけど、特に居場所もないので、仕方なく階段を上った。そこに階段があるから、ただ上った。
太陽の光はいくぶん弱くなっていた。夕暮れが近づいていたのかもしれない。お祭りでもやっているのか、浴衣姿の女の子が何人も歩いていた。赤や黄色の浴衣が金魚のよう。お祭りの会場になんか行ったらもっと落ち込むことになるんじゃないかとちらっと思ったけど、人の流れに抗う元気もなくて、金魚たちの群れに押されて大きな通りを歩いた。
通りの先には、橋があって、下に中くらいの川が流れていた。川沿いに遊歩道があって、そこに出店が並んでいた。縁日というよりは、商工会議所のお祭りのような感じで、くすんだ白や青のテントの下でビールや焼き鳥を売っている。もし縁日の華やかな屋台が並んでいたら逃げ出していたかもしれない。地味な色合いに誘われて、遊歩道に降りた。
ビールを買った。スーツ姿の女がこんな場所で一人でビールを飲むのはさぞ場違いに見えることだろう。随分やさぐれていると思われるのかもしれない。テーブルと椅子がテントの横にあり、おじさんたちがそれぞれ一人でビールを飲んでいた。私も昼間からビール片手に飲んだくれているおじさんたちの仲間になりたかった。いや、できることなら仲間じゃなくておじさんそのものになりたかった。堂々と一人でぼんやり酔っ払っているおじさんの無頓着さがうらやましかった。
遊歩道の先にはもう一つ橋があって、その手前には小さな緑地スペースがあった。植え込みの陰に、石でできたスツールのようなものが並んでいて、座れるようになっている。身を隠すようにそこに腰掛けた。
目の前を、金魚たちがひらひらと通り過ぎていく。
ぼんやりと眺めていると、深い池の底にいるような気がしてきた。
私の言葉は泡となり、地上の人には届かない。たった一人池の底で、ごぼごぼと言葉にならない言葉を発するだけ。
私はその場から動くことも出来ず、暗くなるまで金魚たちの群れを眺めていた。

時々その日のことを思い出す。見知らぬ街の片隅で私は限りなく、孤独だった。
それでも私はやっとの思いで水面に顔を出し、言葉を伝えようとする。
どんなにみっともなくても、どんなに下手くそでも、そうすることでしか、生きていくことができないから。
そうすることが、生きていくことだから。
だけどきっと今も私の一部はあの池の底にいる。心から消えることのない深い深い、孤独を抱えて。