病棟の朝

朝6時。
同室の二人のおばあちゃん、タツノさんとマエハラさんの声で目が覚める。
「私なんて足がしびれちゃって、こんなところに入院してたって全然よくならない、全然よくならないんだよ、もう帰る、○○先生に言うわ」
「まあねえ」
「私なんてさ、足がしびれちゃってさ、かかとも痛いし、入院してから悪くなったわ、ほんともういや」
朝の支度をしても朝食までの時間をもてあますことはわかっているから、7時頃までは寝ていたいのだが、最近は毎朝この調子で、6時には目を覚ましてしまう。
「うーん」と声を上げて、あなたたちの声で目を覚ましてしまいましたよとアピールするも、ふたりは、というかマエハラさんは全然おしゃべりをやめる気配がない。
マエハラさんはいつも大きい声で自分の不平不満や昔話を誰かれかまわず、時には独り言でも喋る。しかも繰り返し喋る。一度聞いてあげようと相づちを打ったら不満が止めどもなく出てきて切り上げるのが大変だったので、それ以来私はマエハラさんとの会話は避けるようにしているのだが、タツノさんはふんふんと受け流したり、返事をしたりしてそれなりに楽しそうだ。これが年の功というものだろうか。
タツノさんは、私が入院してきた三週間前は体調があまりよくなくて、隣のベッドにいても姿はおろか、痰が絡んだゲロゲロいう声意外には言葉を聞くこともなかったのだが、今ではよく喋るマエハラさんと会話が出来るくらいに回復している。回復してみると普通のほがらかなおばあちゃんで、目が合うと「おはよう」と声をかけてくれた。
「おはようございます」とタツノさんに答えたものの本当は寝直したかったのだが、うつらうつらしてはマエハラさんの「私なんてさあ」の声で目が覚めるのを繰り返し、6:50ごろあきらめて起床する。
洗面と着替えを済ませるとデイルームへと向かう。デイルームは食事時には食堂となり、それ以外の時は皆が自由に座れる場所で、4人掛けのテーブルが10個ほどおいてある。座る場所は決まってはいないが、仲良くしているいつものメンバーがいつもの場所に既に集合しているので、私もその輪に加わった。
「おはよう」マリコが言う。
「おはよう」
「おはようございます」と言ったのはヨシオカさんとタニザキさん。
「おはようございます」
砕けた口調の人もいれば、敬語を崩さない人もいるから、それぞれに応じた挨拶をして座る。いつもの仲間はこの3人だ。
「えーっとどこまで話したっけ、そうそう、それでさ、コウタがお母さんに謝りたいことがあるって言うの。何なのって聞いたら、今月の携帯代が3万になったって。もう説教だよね、説教さ」
隣の席でマリコが話の続きをし始めた。マリコは私と同い年だが高校生の長男を筆頭に3人の子どもがいるのだ。マリコの向かいではヒョウ柄の服で全身を固めた48歳のヨシオカさんがにこにこしながら「そりゃ言わないとねえ」と相づちをうち、ヨシオカさんの隣ではタニザキさんが話を聞いているんだかいないんだかわからない顔をしていたかと思うと、
「うちの場合は先月の電話代が1万越しちゃって、パケット放題に入ってないからネットなんかもやらないようにして、電話も最低限にして、気をつけてたんだけど、やっぱりメールはついやっちゃうからだと思うんだけど、一万越しちゃって、もうどうしようって感じで」
とマリコを遮って話し始める。
これはいつものパターンで、タニザキさんのこういう、人の話を聞かないところに3人とも辟易している。しかしつきあいのいいマリコは自分の話をやめてタニザキさんの聞き役に回ってうんうんと聞き始めた。そうしてあとでタニザキさんのいない時に愚痴をこぼすのだ。私はマリコほど喋りたいこともないので、タニザキさんの自分語りはさほど苦痛ではないが、話が回りくどくて面白くないので、あまり聞きたいとも思わない。ナースステーションで携帯を出してもらい、メールを見たり書いたりしながら、話の成り行きになんとなく耳を澄ませている。本を広げて読み始めることもある。私は3人のグループに後から加わった新参者だから、距離を置いても許されるだろうと判断している。
一応そういう態度が気にならないかと尋ねたが、皆気にしないとという返答だった。とはいえ「それは嫌だ」と言える人がいるとしたらかなりハートが強い人だと思うから、この質問は少々卑怯だとは思うが。
時間がゆっくりゆっくりと過ぎていき、そのうち朝食の時間になる。朝食は8時。まだ一時間近くある。
これが私の一日の始まり。今日も病棟に朝が来た。