川上未映子「ヘヴン」

ヘヴン (講談社文庫)

ヘヴン (講談社文庫)

Twitterで知って「愛の夢とか」を読み割と好きなタイプの作家さんかなと思って(「愛の夢とか」読了後の感想はこちら)、図書館の蔵書検索から「このタイトル聞いたことがある気がする」という理由でなんとなくこの本を選んだ。

主人公は中学生。斜視で激しいいじめを受けている「僕」と同じくいじめられている同じクラスの女子の「コジマ」が密かに手紙をやりとりし親しくなって…という話。あらすじを知りたい方はどこか他を当たっていただければいろんな感想ブログなどに出会えます。

愛の夢とか」と比べると「ヘヴン」は「いじめ」というシリアスでハードな問題を取り扱った物語なのだけど、こっちの方が私としては好みかもしれない。こっちを読了して振り返ってみると「愛の夢とか」はふわっとした文体でふわっとした物語を描いているという印象で、アメリカの砂糖砂糖したチョコレートにハチミツつけて食うような大甘な感じがしないでもない。まあ読み終わったときにはそうは思わなかったので、後付けの適当な印象ですが。

とにかくこの物語のコジマと「僕」の世界の危うさや置かれた環境のハードさと、童話のような優しい語り口のバランスが絶妙。この文体じゃなかったらつらくて読み通せなかったかもしれない。
序盤、コジマの語り口があまりにも流麗すぎて「こんな女子中学生いるか?こんな小説みたいな喋り方する奴いるか?」という違和感はあった。でも中盤の「百瀬」といういじめる側の男子と「僕」が二人で意見を言い合う場面あたりから、物語そのものへの見方が変わってきた。
百瀬は「なんで僕に暴力を振るうんだ、そんなことが許されるのか」(本が手元にないので不正確かもしれませんが)と訴える「僕」に対し蕩々と自説を唱えてみせる。圧倒的な強者の立場から僕にものを言ってるからっていうのもあるんだけど、百瀬のその自信は絶対で、自分の世界は完結している。その百瀬の長台詞を読みながら私は「僕」と「百瀬」の決して交わらない遠い遠い距離を感じて何とも言えない気持ちになった。どうやって言葉を尽くしてみても伝わることのない価値観で生きている相手に対峙したときの絶望的な無力感。遠いところにある星と星のような、ものすごい孤独感が、胸に迫ってきた。「僕」は絶望してしまう私とは違って、百瀬の言葉を一応飲み込んでそこにも理はあるのかもしれないと悩むのだけど。
そして一度は交わったと思ったコジマとも、いつの間にか距離は離れていって、手の届かない遠いところに行ってしまう。その「遠いところに行ってしまう」のがわかってくるとコジマの流麗な語り口が自己陶酔的なキャラクターととてもよく合っていることがわかってくる。

そして、コジマとの出会いによって人間的な感情を取り戻した僕に残されたのは、コジマとも百瀬とも関係のないところから突然現れた「ヘヴン」だった(と私は解釈した)。「ヘヴン」の圧倒的な存在感と突き放すような唐突さ。コジマの「ヘヴン」とは違う「僕」だけの「ヘヴン」。「ヘヴン」は美しく、どこまでも美しく、そして残酷なまでに孤独だ。「ヘヴン」は孤独を癒しはしない。でもきっとその光景は「僕」の心をいつまでも照らし続ける光のような存在になるに違いない。決して手の届くことがない、でも求めずにはいられない、美しい光に。
決して真には交わることのない人と人との絶対的な孤独と、その孤独をただ照らす無慈悲で美しい光(=ヘヴン?)。何と言ったらいいのかわからないが、すごい勢いで胸に迫ってくる。小説でこんな出会いをしたのは初めてだ。

これは、もしかしたら物語としての構成とか完成度とかともあまり関係がなく、たぶん私のその時の感情とか、文体との相性とかいろんな要因が重なったことによるとても個人的な経験だし、人に同じ感情を共有して欲しいとも思わない種類の感情なので、決して人にこの本をおすすめはしないが、深く心に残る本になった。
買って手元に置いておきたいような、自分の本棚に安住させてしまうのがもったいないような、不思議な気持ちでいる。読みたくなったときに図書館から「呼び出して会ってもらう」くらいの距離感がいいのかもしれない、などと思っている。