私は「こじらせ系」?「モテない系」?「自意識過剰」?-「脱・詰問系女子」への道

自分という人間のメンタリティを端的に紹介できる言葉をずっと探していた。

自分は基本ひねくれた人間だし、物事を斜めから見るところがあると思っている。ドラマや映画では悪役扱いされる脇役の方に感情移入しがちだし、お笑いは全般好きだけど、心を射貫かれるのは、どこか黒い要素のあるものだ。
「素直でまっすぐな性格」ではないと思う。人付き合いも絶対うまいとはいえない。どこか歪んでいる気がする。
そういう自分みたいな人のことを、端的に言う「○○系」みたいな言葉はないのだろうかとずっと思っていた。そういうのがあったら人ともわかりあうのが早そうで、便利そうだ。

夫は自分のことをよく「自意識過剰」と言う。
Wikipediaの一文目には

自意識過剰(じいしきかじょう)とは、自分自身の事柄に関して過剰に意識している人。

とある。
なんだかよくわからない。
夫に自分が自意識過剰って思うところってどういうところなのか聞いたら
「自分が何か特別じゃないかという想いが強くなったり。自分がどう見られるかを過剰に気にしたり。自分のいる場所の「外」からどう見られるか、承認欲求の強さ。」
と言われた。
「自分がどう見られるかを過剰に気にする」はわかるんだけど、「自分が特別じゃないかと言う思い」とか「承認欲求の強さ」は自意識過剰なんだろうか。うまくいかないことをなんでも「自意識過剰」のせいにしていないかと言いたくなってしまう。
それに夫に限らずなんか世の中で「自意識過剰」って言葉は便利に使われすぎている気がする。
「実は何も言ってないんじゃないのか」という気さえしてくる。
私も時々「人からどう見られるかを考えすぎて変なことをする」ことはある。
でも「自分は自意識過剰な人間だ」と名乗れるほどいつもそういうことをしているとは思えない。
なので「私は自意識過剰」は却下。                                      
「こじらせ系」「モテない系」はどうだろう。(この二つは厳密に言うと違うのかもしれないが、よくわからないのでとりあえず一緒に考えさせていただく)。
「くすぶれ!モテない系」は読んだが「女子をこじらせて」は読んだことがないので、こじらせ系に関してはこちらのまとめを読んで見る。
自分の都合の良い順序で、一部抜粋。

能町みね子久保ミツロウなどといった人に親近感を感じる」

面白いとは思うんだけど、親近感とはちょっと違うなあ。
いや、そもそもなんでこんなことを考え始めたのかというと「モテない系」が認知されだしたときに「ああ、ああいう人たちが仲間を見つけて喜んでるんだ、いいよなああいう人たちは」みたいな僻みが出てきたんですよね。「私はここにもはまれないのか」という。それで「自分探し」ってやつを始めているわけです。

 「女性性に自信がない」
 「世間の言う『女のコって可愛いよね』の中に自分を当てはめられない」

うーん、確かに世間の言う「可愛い女の子」を狙おうと思ったことはないけど、自分の女性性に自信がないかっていうわれると、ある!と胸ははらないけど、なくはない。と思う。「女」と見られることに特に抵抗はない。
そして、どちらかというといわゆる「可愛い女の子」(モテない系で言う「モテ子」)のことは割と素直に可愛いなって思うけど「くすぶれ!モテない系」の中で紹介されているようなこだわりのある古着とかジャージ系の服着てる女の子の方が「あーなんかこだわってんなーねらってんなーひとくせありそうだなー」と感じていたような気がする。一回いかにも古着っぽいワンピース古着屋で買ったけど、なんか恥ずかしくて着られなかった。

 「いわなくてもいいのに自分の欠点を他人にぶちまける」

うーん、これもあんまりやったことない。
むしろ「そういうことがやれていいよな」って思ったことはあるような気がする。
人の懐に飛び込むような上手い技を使いやがって、みたいな。

「嘘とか自分をいい風に見せようっていう演出が苦手で、昔でいうぶりっ子やベタな女らしい行動に対して、過剰にテレがある。ツッコミ力が高いから、見え見えの媚びが気持ち悪い!って思ってしまう」

「見え見えの媚びをする女」っていうのに会ったことがないからかもしれないけど「ぶりっ子」ってあんまり嫌いじゃない。人に好かれたいのは人間として当たり前の感情だし、素直だなって思う。(自分の好きな男を取られた、とかいう体験があったらたぶん全然違ってくると思うけど)
「自分をいい風に見せようって演出をしない」みたいな姿勢の方がなんかツッコミたくなるなー。「自分をいい風に見せようって演出をしない演出なんじゃないの」みたいな。「しない」じゃなくて「できない」って話だから「そうだったんですか…」としか言えないけど。

でも「ツッコミ力が高い」っていうのは自分にも思い当たる節がある。だって私は「モテない系」の人たちに対してツッコミを入れている。

改めて「くすぶれ!モテない系」を読み返したら
「見かけは十分にモテ系になれそうなのに、『天然ツッコミ』タイプのためにモテない」という女子が「例外」としてさらりと紹介されている。

女子にまともにツッコミを入れられることが好きな男子はほとんどいません。悲しいことに、モテ系が内面までカンペキを求めちゃうとモテない系にぐっと近づいていくのです。

あ、これに近いかも、って思った。「見かけがモテ系」かどうかはおいといて「天然ツッコミ」ってところ。そうか例外だったのか。
でも、相手の内面にカンペキを求めてるっていうのは、ちょっと違うかな。

よし、ちょっと自分のことを振り返ってみる。お暇な方だけお付き合いください。

昔から、理屈っぽくて弁の立つ子どもだった。そして子どもが「ちょっと意地悪なことを言う」みたいなひねくれた言動を、面白がるところのある両親だった。両親の友達を幼児の私が言い負かしてその友達が悔しがっているのを見て両親が笑っていたことを、なんとなく記憶している。

小学生の時は「口げんかが強い子」という認知をされていた。思えば人の代わりに「人に文句を言い、言い負かす」という役割をいつの間にか担っていたようなところがある。関係ないけど占いでよく向いている職業に「弁護士」と出ていたという記憶もある。そういう星の下に生まれたのかもしれない。

中高は趣味や部活動に目覚めて、そっち方面でわかり合う穏便な関係を築いていたので、あまりそういうことはしていなかったように思う。思えば平和な時代だった。

大学に入って、もう部活動的なのはめんどくさいなと思って、大学のクラスの人たちとか、ゼミの人たちとか、趣味でつながらない相手と付き合うようになったら「口げんかが強い子」の私が出てきた。というか、他にコミュニケーションの取り方を知らなかった。「言い負かす」ことが会話だと思っているようなところがあった。

「毒舌ツッコミキャラ」みたいな地位を得「あんたのその言動どうなの」という流れになると表に立って徹底的に追い詰める、というようなことをいつもしていた。理詰めで追い詰め、意地悪に痛いところを突く。
「天然ツッコミ」なんてかわいいもんじゃない。「天然詰問」くらいのものだ。「詰問系女子」だ。

「詰問系女子」。誰にもわかってもらえないかもしれないが、ちょっとしっくりくる。

でも「詰問系女子」をやりながら、いつもどこかで「なんか違うんじゃないかな」という気がしていた。ツッコまれたり、いじられたりしている人たちが、心のどこかでうらやましかったけど、何をどうやったらそういう立場になれるのか、さっぱりわからなかった。
一番の問題は「限度がわからない」ということだった。漠然と「言い過ぎたんじゃなかろうか、傷つけてしまったんじゃなかろうか」と後で思うのだが、「この流れで話しているんだから、押し切るしかなかろう」という発想しかなかった。毒舌という刀を振るいながら、返す刀で傷ついているような感じだ。今だからわかるけど、詰問系女子は辛いのだ。

大学を卒業してから、飲み会の席で、夫婦で参加している人がいて「夫がひどい」という話になって、例によってその夫の方に「あなたはいかに悪いことをしているか」ということを「詰問」したところ、最終的にキレ気味に「嫁姑問題で苦労したこともないお前が俺に意見を言うな」という旨の、完全に会話を断絶される一言を言われ「あ、なんとかしないとやばい、これは会話じゃない」と初めて本気で思った。
それでようやく、とにかくどこかで「引く」ことを覚えないとやっていけないと考えるようになった。

その後別の飲み会で、詳しいことは忘れたが「ある女性芸能人がアリかナシか」みたいな、実にどうでもいい議論でも延々と論争を繰り広げ、これは嫁姑問題と違って人をあまり傷付けはしないのだが「不毛だ」とあるとき気がついて、何と言ったかは忘れたが「まああなたの意見もありだよね」的な感じで話を終わらせたことがあった。私の記憶にある初めての「詰問」を自分から終わらせた瞬間だ。
脱・詰問系女子への道。

だが染みついた「詰問系」はそう簡単に変えることができるわけもなく、とりあえず取った別の策は「黙って聞く」「聞かれたら答える」ことだった。まあ、最も基本的で無難な策だ。
だけどこれが意外とできているようでできていなかった。「黙って聞く」はまあいいのだが「聞かれたら答える」が難しい。何しろ「人の意見が先にあって、それを論破する」ことばかりやってきたので、「自分の意見を普通に言う」ということが出来ないのだ。たとえば的外れな質問が来たときに「こいつわかってないな…」と思いながら「まあ、そういうこともありますねえ」と思ってもいないことを言って受け流してしまったりする。もちろんそれでは会話は発展しない。普通に「そうじゃなくて、こうなんです」と言えばいいのだとわかったのはつい最近のことだ。というか、相手を「わかってくれないやつ」と決めつけるところで止まっていて「では自分はどう思っているのか」ということをきちんと考えることさえしていなかったかもしれない。
ついでに言うと「黙って聞く」に「わからない部分があったら質問する」という条項を付け加えていいと気がついたのも、つい最近のことだ。

「詰問系女子」には「ものすごく自分がある」ように見えて、実は自分がなかったのだ。

「あいつどうかって思うから代わりに言って欲しい」と人から思われているのではないか、その期待に応えなければという思いがどこかにあったのかもしれない。そういう意味では立派な「自意識過剰」だ。だがそんなことにはずっと気づかなかった。「これが自分だ」と思ってやってきた。
「自意識」がどこにあるのかわからなかったのだから「自意識過剰以前」の問題だ。

最近は飲み会の機会も減ったし、病気をして入院したことで仕事が減ったりなくなったりし、10年以上やってきたけど自分はこの仕事には向いていないのではないかと思うようになったり、なんかまあいろいろとあまりぱっとしないことが続いて、自分の近況を人に話すこともなんだか憂鬱になり、人と集まることから遠ざかるようになっていった。

でも悪いことばかりじゃなかった。Twitterやブログを通して、とりとめのない自分語りをしたり、世の中の何かについて自分の意見を言うことの面白さ、それによって人と通じ合えることの楽しさを覚えた。
何かについて感想や意見を人にわかるように言う、というのは実は訓練のいることだと思う。別に万人に受け入れられるようわかりやすく説明することばかりがいいとは思わない。ある程度内輪だけで通じる言葉で、わかるやつだけわかればいい!みたいなテンションで語る面白さもある。でも、自分ひとりの胸に抱えておくだけだと「なんかよかったな」「なんか嫌いだな」くらいのレベルでとどまってしまいがちな気がする。「誰かに伝えてみよう」という視点で見てみると、思わぬ自分の気持ちに気づいたりすることがある。

何よりこの前のエントリで、「無償の愛がこの世にはあるという理想を肯定する」という自分の意見を言いつつ「無償の愛」という価値観に苦しめられる人たちに認めてもらえることができたというのはとても大きな経験だった。

「誰とでもわかりあえる!」なんておめでたいことは言わないが、とりあえず「わかりあえる可能性」を信じないと会話は始まらない。思えば的外れな質問をされた時に「こいつはわからない奴」と決めつけた時点で私は会話を終わらせていたのだ。
「詰問」以外のまっとうな会話を、ようやくここから始められるのかもしれない。

そうやって考えて、さっきの「こじらせ系」のことを振り返ってみると、

 「女性性に自信がない」
 「世間の言う『女のコって可愛いよね』の中に自分を当てはめられない」

に関して言えば「女性性に自信がない」はよく考えるとちょっとまだ自分の中で整理がつききれてないところがあって、単純に「自分には自信がある」とも言えないというレベルにとどまるのだけど、「世間の言う『女のコって可愛いよね』の中に自分を当てはめられない」は『女の子って可愛いよね』を『いわゆる可愛い女の子にはなりたくないよね』に入れ替えるとすごく共感できる。
私は「モテない系」の人たちの葛藤を知らなかった。世間の「可愛い女の子」のイメージを無視することも出来ず、受け入れることもできず、いろいろねじくれてああなっているということが、わからなかった。「好きで主義主張のある服を着て、好きな趣味で身を固めて『可愛い女の子とは違う私』を生きているんだろう」と思っていた。(そういう人もいるんだとは思うが)

 「いわなくてもいいのに自分の欠点を他人にぶちまける」

これも「会話のテクニックの一つとしてやる」のではなく「どうしてもこうなっちゃう」のだとすると、私の「詰問」と同じだ。「自分の欠点を他人にぶちまけ」て「そんなことないよ」と慰めて欲しいとか、人に親しみを持ってもらいたいというのとはちょっと違うのだろう。

「嘘とか自分をいい風に見せようっていう演出が苦手で、昔でいうぶりっ子やベタな女らしい行動に対して、過剰にテレがある。ツッコミ力が高いから、見え見えの媚びが気持ち悪い!って思ってしまう」

これは最初に書いたときの話と繰り返しになるのだけど、私には「自分をいい風に見せようって演出をしない」ことのほうが「見え見えの媚び」に見えていたのだ。だけど演出を「しない」んじゃなくて「できない」場合がある。私には「自分をいい風に見せようって演出をしない演出」は出来なくて「自分をいい風に見せる演出」の方が楽だった。
…というか「演出」なんて発想そのものを持っていなかったかもしれない。気がついたら役割ができていて(と自分が思い込んでいたのかもしれない)、それがありのままの自分なのだろうと思ってやっていた。

あ、あと「趣味をすごく大事にする、こだわりがある」っていうのも「こじらせ系」「モテない系」の特徴だって話が確かあって、これはたぶん「サブカル系」に通じるところもあるんだと思う。私も趣味は結構大事にするし、好きなものを上げるとサブカル寄りのところもあると思うんだけど、私は「趣味」という入り口で自己紹介をしたことがあまりなくて、元々同じ趣味の人と「ねー」ってわかり合ってきたことしかないから、この辺に関しては今後の研究課題としたい。

「こじらせ系」「モテない系」と理解し合えるところが見えてきたような気がする。あ、あと「自意識過剰」とも。
「同じだ!」とまでは思わないけど、少し仲間な気がしてきたし、もう僻みはしない。

私は「詰問系女子」を卒業できたのだろうか。

今の自分が会ったらどう思うかわからないのだけど、まだここまで考えが進んでいなかった頃、いわゆる「サバサバ系」「姉御系」の人と会うと、心の中でもの凄く意地悪くツッコミを入れていた記憶がある。たぶん「上からツッコミ系」という意味で自分と似たものを感じていたのだろう。意地悪く矛盾しているところを見つけては「この人にこういうツッコミ入れたら、どんな反応するんだろう」とか考えていた。心の中での「詰問」だ。実際は張り合うのは怖いし、かといって自分が人の懐に飛び込んでかわいがってもらえるタイプじゃないとわかっていたから、黙って関わり合いにならないようにしていたけど。
でもよく考えてみると「サバサバ系」「姉御系」の中にも「見栄」とか「虚勢」とかでそれをやってる人と、根っからの人がいる。根っからの(と私が思った)人には一度しか会った記憶がないけど、そういう人にはツッコみたいなんて思わなかったし、それなりに悪くない関係を築けていた(向こうが圧倒的に年も立場も上だったから優しい目で見てくれていたんだと思うけど)気がする。
「見栄」や「虚勢」で「サバサバ系」「姉御系」をやってる人の方と無理なく穏便な関係を築くことが出来るようになったら、真の意味での「卒業」かもしれない。これはできるかどうかちょっとわからない。一生無理かもしれない。

で、「詰問系女子」の先には何があるのか。
そこにはもう「○○系」なんてものはないのかもしれない。

いわゆる「ありのままの自分」ってやつがあって、そこでは平和に穏やかに優しく人とわかりあえたりするのだろうか。

うーん、なんかそれもつまらないな。

「毒舌」ってやつにもなんとなく憧れる。「詰問系」は卒業しても、なんかそこは持っていたいような。せっかく「詰問系」で生きてきたんだから、何かうまくそういう方面に開花させられないものか。これまでの自分を、やめたいんだけど、やめたくない。

あ、もしかして私、「こじらせ」てる?