映画「凶悪」が私達につきつけるもの

映画「凶悪」を見た。
凄惨な暴力シーンや重たいテーマに入り込めるか不安に思いながら見始めたが、意外と違和感や不快感もなく、すんなりと見ることが出来た。

以下、感想。ネタバレあります。


あらすじはものすごく端的に言うと、雑誌記者である山田孝之が、ある死刑囚の告白をきっかけに殺人事件の真相を追い始め、別の殺人犯を逮捕に追い込む、というもの。

死刑囚がである須藤がピエール瀧、別の殺人犯「先生」こと木村がリリーフランキー。このとても殺人犯に見えない人の良さそうな二人が、笑いながら殺人を犯すシーンは、とても記号的にわかりやすい「狂気」であり「凶悪」だ。

最初、藤井はこの一件に興味がなかった。あるストーカー殺人を追いかけていたのに会社からストップがかかって、こちらを押し付けられた。死刑囚になんて会いたくもない。そういう、ゼロというよりマイナスからスタートして、だんだん興味を持ち出し、告発者・須藤との距離が近づくにつれて自分も同じような感覚に囚われ、木村のことが憎くて、途中からは殺したいとまで思い始める。自分は木村や須藤とは違う、あくまで「法」で裁くんだ、死刑にすべきなんだ、と考えるものの、最終的には木村たちと同じレベルにまで行ってしまうんです。

雑誌記者の藤井が最初事件にあまり興味がなさそうだったところから、須藤や「先生」が死ぬべきなんだという義憤にかられるところまでいく過程が全く描かれず、取材シーンも最初だけで、あとは事件の全容を描くだけで済ませてしまうというのは、ちょっと事件のセンセーショナルさに頼りすぎてはいないか、いったいどうやってそこまでの真相に藤井はたどりついたんだよとも思ったのだが、もしかすると事件を知る前と知った後の藤井の表情のギャップを強調したかったのかもしれない。

自分の告白により人が動いてくれたことに感謝の念を抱き、キリスト教にも入信し憑き物が落ちたように穏やかな表情になる須藤(暴力シーンよりも、この穏やかさがピエール瀧の演技の真骨頂だと思う)に対し「あなたの復讐はこれからじゃないですか!」と叫ぶ藤井。

リリー:藤井が須藤の情状証人として出廷した法廷でも、「神様は俺に言いましたよ。生きて罪を償いなさいって」なんて殊勝に言う須藤に対して、藤井は「この世で喜びなんか感じるなっ! 生きてる実感なんか感じるなっ!」と叫ぶ。もうあのあたりから、須藤よりも先生よりも一番この事件に執着している“異常者”だよね。

しかし叫んだ後の藤井の表情の表情は「凶悪」というよりは何かをやり尽くしたような、そしてそこには結局何も残らなかったというような空虚さがあった。その表情は非常に印象的だった。
そして、最後の「先生」との面会の場面。

山田:しんどかったですね。特に、拘置所に収監された木村に面会する映画のラストシーンは、最後の最後まで、どう演じようか決まらなかった。怒りが頂点に達して怒鳴り散らす法廷の場から、数カ月後の面会。その間に藤井の心境にどんな変化が起きていたら一番怖いのか、その点で迷いがあったんです。でも、芝居の「段取り」の時のリリーさんが何の衒(てら)いもなく普通にやってくるのを見て、木村を許さない、許さないと高ぶっていた藤井の感情も、もはや沸騰して気化してしまった、そう考えることにしたんです。

リリー:それは感じました。なんかすごく「圧」はあるんだけど、脱力して肩の力は抜けている。目だけギラギラしている、みたいな。

山田:面会の場で木村は、「私を殺したいと一番強く願っているのは、被害者でも、おそらく須藤でもない」と言って、言葉にはしないが、挑発する。そう言われて藤井は動揺するのだろうか、と最初は考えていたんです。でも、「ハイ、そうですよ。あなたは死ぬべきだ」と平然と受け止める精神状態になっているほうが一番恐ろしいだろうと、その場で芝居の方向を決めました。

ラストカットは、面会室のガラス越しの藤井。まるで藤井のほうが刑務所に入っているようにも見える。

藤井自身の家庭には認知症の母がいて、妻が一人でその面倒を見ている。その妻が母が「死ぬのを待っている」と告白したことで対岸の悪事だった須藤や「先生」の行為が急に自分のこととして迫ってきたのではないか。借金のかたに家族を「先生」に差し出した一家と自分たちと何が違うのかと。
離婚届を突きつけて迫ってきた妻に対し、藤井は母を老人ホームに入れる決意をする。妻と離婚し母を苛立ちに任せてぶん殴りながら世話をするというところまでいったらそれはそれで一つの「凶悪」であり「狂気」だが、藤井はそこまで暴走しない。藤井には守りたい家庭があり「常識」がある。
そんな「常識」となんとしても「先生」を死に至らしめたいという「凶悪」は併存する。「先生」にだって須藤の娘にランドセルをプレゼントし「一生懸命勉強するんだよ」と説くような「常識」は存在するのだ。

だれもが「常識」と「凶悪」を心に飼っている。この映画に出てくる人はみんなどこか「凶悪」だし、それを楽しんで見ている私達もやはり「凶悪」だ。

須藤は情に厚く、「先生」をこころから兄貴分として信頼し、弟分の若者をかわいがり、逆に裏切りに合ったときにはものすごい残酷さを発揮してその相手を死に追い込む。しかし「先生」は自分が危うくなれば須藤を切り捨てることもいとわないし、人を殺しているという実感も希薄だ。「先生」にとっての殺人は金儲けの手段であり快楽でもある。手間のかかる後始末は子分に任せる。弟分である須藤は「しょうがねえなあ」と言いながらも淡々と「先生」の手足となって殺人を働く。
須藤の家族を含む「先生」の取り巻きが仲良くクリスマスパーティーを楽しむくだりは、この二人の関係が単なるビジネスパートナーではない、偽家族的な関係を築いていたことを表している。
須藤と「先生」の生い立ちについて、この映画では全く触れられていない。
リリーフランキーはインタビューで「犯人がどういう環境で育ったかっていうのは、犯罪小説が文字数稼ぎでやるものじゃないですか?」と語っている。

―『凶悪』のように事実をもとにしたフィクションだと、本来であれば犯人の育った環境なんかがリアルに説明される傾向が強いかもしれないですね。

リリー:でも、この映画の原作は小説じゃなくてドキュメンタリーですからね。「犯人はどこの土地に生まれて、どんな親で」というような背景からその犯罪が起きた理由を推し量ろうとするけど、そういう意味付けをして、それらしい嘘をつくのは小説なのかもしれない。でも現実ってそんな緻密でシリアスなものばっかりじゃないんですよ。現実のほうがもっとバカバカしいものじゃないですか。

―「生い立ちが複雑だったから人を殺した」みたいなエピソードは、いかにも小説的なレトリックなわけですね。

リリー:現実はもっとおそまつでしょ。先生も、殺して金が手に入ればいいというだけで、他に理由があるわけではないんですよね。

確かにこの映画で描かれるべきは様々に姿を変えて現れる「凶悪さ」であってその背景ではないのかもしれない。それでもやっぱりそのへんを知りたいという野次馬根性が私にはある。
もしこの事件の全容が藤井の取材によって明るみに出ることになれば、須藤や「先生」の生い立ちや家庭環境について掘り下げた雑誌の記事やテレビのワイドショーなどが山ほど出てくるはずだ。(実在の事件がモデルとなっているというから、もう出ているのかもしれない)。
そして私達は生活の片手間に「へえ、こんな異常な人がいるんだ」「へえ、こんな異常な事件があるんだ」と事件を「消費」する。それもまた一つの大いなる「凶悪」だ。

瀧 この作品のように、深い井戸を掘ってその奥を見せるような、つまりダークな世界をきちんと見せる作品が、確かに最近の日本映画には、あまりないように思います。

深い井戸の底をのぞき込みそこに自分の姿が映っていることに気づいたとき、私達は自分の中にも確かにある「凶悪」の存在を思い知るのだ。



あとどうでもいいんですけど、エンドロールを見ていて「衣装協力フェリシモ」ってところでへえええと思った。池脇千鶴の衣装はフェリシモだったのか。家に縛り付けられてなかなか外出できない主婦の着るものは通販にならざるをえないということか。それとも女性記者の服がフェリシモだったのか。仕事に追われてろくに買い物に行く暇もないOLの着るものは(以下略)。
昔ローカルCMを見ていたら自分の持ってるユニクロの服を着ている人が出てきてはっとしたことがあったが、フェリシモ通の人は池脇千鶴の衣装を見て「あ、これ『これであなたも森ガール!ほっこりカラフルボーダーニットの会』のやつ!」とかわかるんだろうか。(そんな会はありません)