雪越え。

ファンファーレの音で目覚めたら、楽団が玄関に到着したところだった。
僕は慌てて身支度を済ませ、楽団を部屋に招き入れた。
2LDKの僕の部屋は50人の楽団員でいっぱいになった。シンバルががしゃがしゃ音を立てた。
「狭い部屋で済みません」僕は言った。
「かまいませんよ」指揮者がにこやかに答えた。
「よくあることですから。何せ雪越えの儀式ですからね」
「そうなんです、これだけは手を抜くことが出来なくて」
僕はほっとした。雪越えの儀式はそれなりの規模の楽団を迎えて行うのが、小さい頃からの習慣だった。正月のおせちなんかはろくに作りもしないくせに、こんなところで妙に忠実に実家のやり方を踏襲している。
「さっそく、お願いできますか」
「わかりました」
指揮者は早速指揮棒を構える。楽団員にもぴりっとしたムードが漂った。
楽曲はオーボエのソロから始まった。哀愁を帯びたメロディーに、バイオリンのハーモニーが重なる。音は徐々に重厚さを増し、やがてトランペットがきらびやかな音色で高らかに奏でると、雪越えの曲はクライマックスを迎える。
壁の薄いアパートでは近隣にも丸聞こえだろうが、そんなに長い間ではないし、雪越えの儀式なら仕方ないと許してくれるだろう。僕は両手を膝に置き、座布団に正座して雪越えの曲を聴いた。何気なく外を見ると、ちらちらと雪が舞い始めている。冬の始まり、雪越えには絶好の天気だ。予約を入れたときはちょっと遅かったかと思っていたが、今年は雪が遅く、まだ積もってはいなかった。
曲は10分ほどで終わった。曲が終わると、僕は彼らに熱いそば茶を出した。曲を聴いた後熱いそば茶を皆で飲む。これも雪越えの儀式の一つだ。50人分のお茶を入れるのは、うちの小さな急須ではちょっと時間がかかったが、楽団員は皆おとなしく待っていた。「よくあること」と指揮者が言っていたとおり、たぶん小さな家で演奏するのにも慣れっこなのだろう。50個の湯飲みなどとても家にはないので、紙コップを用意していた。風情はなくなるが、まあ仕方ない。
「最近は、雪越えをする家も少なくなりましてね」そば茶をすすりながら指揮者が言った。
「そうなんですか」
「昔は今の時期なんかは雪越えの儀式で駆け回っていたんだが、最近はさっぱり…特にあなたのような若い人がするのは珍しいですよ、いや感心」
「どうも、これをしないと冬を上手く迎えられないんですよ、省略した年もあるんですが、ひどい風邪を引いたりして」
「ああ」指揮者は何度も頷いた。
「雪越えの儀式には体を冬モードにするという意味があるんですよ。体が夏モードのまま冬を迎えると、風邪を引いてしまいます…最近の若者は季節の変わり目に鈍感なのか、儀式をしなくても平気な顔をしている人も多いですがね」
「便利なのかもしれませんね、多少鈍い方が」
「鈍いというのは怖いものです。風邪を引かない代わりに、大病を患うかもしれませんし、鈍くあることに慣れてしまうと、何か大切なものを見落としてしまうような気もしますがね」
指揮者は眉をひそめて秘密を打ち明けるような顔でそう言うと、残りのそば茶を飲み干して立ち上がった。
「すっかり長居をしてしまいました。代金は後日、指定の口座にお振り込みください。我々は、この辺で失礼いたします。」
「どうもありがとうございました」僕は指揮者を先頭に、ぞろぞろと帰っていく楽団員を見送った。玄関は楽団員の黒い靴だらけで、自分の靴がわからなくならないだろうかと心配になったが、彼らは迷うことなく黒い靴の群れの中から自分の靴を見つけ出していた。
ドアを閉めて部屋に戻ると、指揮者の言っていた鈍くあることで見落とされる「何か大切なもの」とは何だろうと考えた。さっきまで楽団員がひしめき合っていた部屋の隅っこには、薄灰色の寒さの気配がうずくまっていた。長い冬が始まるのだ。