マエハラさん

「私なんてこの病院に来てから悪くなってる、頭だって痛いし、どんどん悪くなってるよ。もうこんな病院出て行きたい、出て行ってやる」
今日も同室のおばあちゃん、マエハラさんの愚痴で目が覚める朝である。おはようございます、と声をかけてもおかまいなし、返事が返ってきたためしがない。話し相手のタツノさんはタツノさんで「また暖房入ってないわー全くもう困ったもんだね」と最近は常に暖房の入り具合ばかり気にしており、マエハラさんの話を全然聞いていない。でもそれで話が途切れたりはせずにお互い言いたいことを言い合っているのだから、たぶんそれでいいのだろう。
マエハラさんのお喋りはうるさくて迷惑ではあるのだが、その語り口からは、本当に病状が悪くなっていると感じて不安で仕方がないという気持ちが良く伝わってくるので、どうも嫌いにはなれない。
皆のコミュニケーションスペースであるデイルームに行っても、マエハラさんの口調は変わらない。大きな声で、自分のいいたいことをどんどん話す。その内容は愚痴であったり、過去の楽しかった思い出のことであったり、人の悪口であったり、いろいろなのだが、そういうことを臆面もなく話してしまう裏表のなさも、私がマエハラさんを嫌いになれない理由だ。
だがいつものグループの人たち(文句をいいつつも結局一緒に居続けている)はマエハラさんのことをあからさまに嫌っていて、マエハラさんが昔英語を勉強していて英語の本を何冊も読んだなんて話をしていると「自慢話!」と眉を潜める。確かにそれは自慢話ではあるのだが、マエハラさんは自慢話だけを大きな声で喋っているわけではなく、おそらく小さい声で話すことが出来ない人なのである。お年寄りで耳が遠いだけではないような気がする。とにかく何でも主張したいのだろう。
病室は4人部屋で、タツノさん、マエハラさん、私と、後の一人はタニザキさんだ。(タニザキさんはベッド周りのカーテンを閉めっぱなしにしており、病室ではタニザキさんの声を聞いたことはほとんどない。)病室で「また悪くなった、もうダメ」と今にも泣きそうな声で言いながらベッドに潜り込んでいるマエハラさんや、病室に話し相手のタツノさんがいないとき「あんたは元気だねえ、いいねえ、すぐによくなるよ」と私に言ってくれたマエハラさんをマリコとヨシオカさんは知らない。タニザキさんはそういう弱気なマエハラさんを知っているんじゃないかと思うのだが、タニザキさんのことだから、マリコとヨシオカさんの言うことはまるごと信じるのだろうし、一緒に悪口を言い合うことで安心もできるのだろう。
それはさておき、そんな感じで毎朝「もうこんな病院出て行ってやる」と言っていたマエハラさんだが、どんどん悪くなってはいなかったらしく、本当に退院する日が来た。マエハラさんはデイルームでも今日出て行く今日出て行くと言うものだから、あっという間に退院は皆の知るところとなる。いつものメンバーは「これでやっと静かになる」と歓迎ムードだ。外出の予定がある私にタニザキさんが「アベさんが帰ってくる頃にはいなくなってますよ!」となぜか誇らしげに言う。いやそういうことを言っているあなたにこそいなくなって欲しいのだがと言いたいところだがもちろんそんなことは言えない。
まあとにかく実際外出から戻ったときにはマエハラさんのベッドは空になっており「あらあ暖房また切れてるわあほらほら」とタツノさんが明らかに私に話しかけ始めている。タツノさんが実はかなりのお喋りであるということは数日のうちに明らかになるのだが、それはまた別の話である。