「泡」の魔力は人を狂わせる

洗顔の際に重視される「泡」の話である。
出来るだけ多くの、しっかりした泡で顔を包み込んで洗うのが大切というのは、実行しているかどうかは別としても、女性の間ではもはや常識であろう。
「あきらめないで」で有名なあの石けんも、もくもくとした泡の映像を見せてアピールしているではないか。両方の手のみならず、スポンジや泡立てネットなどをつかって女は日々泡を製造する。
私も女の端くれとして長いこと泡の製造に尽力してきたが、最近「泡になって出てくる洗顔料」に替えたことにより、とうとう泡製造の労苦から解放された。
しかし私はこの「泡になって出てくる洗顔料」の最近の台頭を少々意外に感じている。洗剤を泡にして出すボトルならずいぶん前から存在していたし、洗顔料を泡にするなんて誰もが思いつきそうなことだから、発売しようと思えばいつでも発売できたはずだ。だから今頃までこういう製品が出なかったのは「はじめから泡になっているのでは何か物足りない」「自力で泡を製造したい」というのが市井の女たちの本音なのではないかと思っていたのだ。
なにしろ、泡立てというのは何か心躍る行為である。幼い頃お風呂場で石けんの泡と戯れた人は多いだろう。私は皿洗いを手伝うという口実で、洗剤の入った水を泡立て器でかしゃかしゃと混ぜて楽しんでいた記憶がある。生クリームにしてもメレンゲにしても、空気を含んでふわふわになるものは、何かしら愛おしさを感じさせる。私も、ゆっくりする時間があるときであれば自分で心ゆくまで泡を製造していたい。しかし日々の暮らしの慌ただしさに負けて、とうとう泡になって出てくる洗顔料の便利さを選んでしまったのである。世の女たちも私と同じ心境で泡で出てくる洗顔料を手に取ったのであろうか。
何年前の話だったか、母の行きつけの飲み屋で、洗顔フォーム販売のデモンストレーションを始めた人がいた。母と同様常連だったその人は、小さな飲み屋の厨房を借りて洗顔フォームを一心に泡立て、売り込みをかけてきた。こうやって指先でかき混ぜるようにして泡立てるときめの細かい泡が出来るの。これで顔を洗うのよ。その手のひらにはこんもりと一山の泡ができあがっているのだった。顔につけたら確かに気持ちいいかもしれない。そう私が思った瞬間彼女は言った。
「これだけ泡が立てば全身洗えるのよ。私はいつもそうしてる」
ちょっと待ってくれ、と言いたい。泡を製造するのはたっぷりの泡で顔を洗うためではないか。たくさん出来たからと言って全身に伸ばしてしまってどうするのだ。人間は何かに熱中すると時として本質を見失ってしまうのである。これも泡立てるという行為に潜む魔力によるものだろう。人のいい母はその洗顔フォームを購入していたが、それで全身を洗っていたのかどうかは知らない。あくまでも顔を洗うための泡という目的を見失わない母親であって欲しいものである。