好きだからこそ

まだ入院中なのだけど、関係ない、というか入院する前に書いた話。

コーヒーが好きだ。
だから毎朝、コーヒーを入れる。
熱いうちに、保温のできるタンブラーにつめておく。
夜、まだ温かいコーヒーを流しに捨てる。
タンブラーを洗う。

最初は「コーヒー飲まなかったの?」と言っていた夫も、
最近は何も言わなくなった。

毎日とは言わないが、だいたいこんな感じである。

自分でもどうかと思っているのだ。
「世界中には満足に食べることもできない子供がたくさんいるというのに!」
というお叱りも甘んじて受ける。
コーヒー農家の方に焼き討ちにあっても文句は言えまい。

誤解しないでいただきたいのだが、コーヒーは好きだ。かなり好きだと思う。
好きだから、飲み終わると寂しい。
なくなると、飲みたくなる。
次のコーヒーを入れることはできるが、飲み過ぎると具合が悪くなる。
「飲み終わらない」「具合が悪くならない」コーヒーが私の理想である。

おわかりいただけるだろうか。
コーヒーへの究極の愛の形なのである。
「君は僕のそばにいてくれるだけでいいから」という美しい愛なのである。

しかしやっぱりコーヒーを捨てる時には胸が痛む。
うっすら焦茶色に染まった排水溝からコーヒーたちの悲鳴が聞こえてくるようだ。
「おい飲めよバカ!どういうことだよ!」
「こんな屈辱があるか!」
「末代までたたってやる!」

私に運がないのは、これまで捨ててきたコーヒーたちの呪いかもしれない。
しかしそれもこれも愛しているからこそなのである。
土日のゆったり出来るときにはせめてコーヒーを飲もうと思う。
しかし土日には家にいる夫が、
「飲んでもいい?」と置いてある私のコーヒーに手をつけようとする。
飲んでもらえた方がコーヒーだって幸せに決まっている。
「君は僕のそばにいてくれるだけでいいから」なんてお人形扱いをしたら家出されてしまうのである。
私は泣く泣くコーヒーを夫に差し出す。
コーヒーを飲まずに涙を飲むのである。お後がよろしいようで。