母言って、シュシュ屋が儲かる
昔、母と二人で買い物に行くと、よく「作れそう」と言うのを聞いたものだ。
手芸の得意な母なのだ。
カーテンやクッションカバー、テーブルクロスなどは全て母が縫っていた。
セーターを編んでくれたこともあるし、レース編みもできる。服もいくつか作ってくれた。4〜5歳の時に親戚の結婚式のために私のドレスを縫ったこともある。レースのエプロンのついた、人形の服みたいな凝った作りのドレスで、親戚から絶賛された記憶がある。
よくわからない道具を使って毛糸の座布団とかラグみたいなものも作っていたし、木目込人形も習っていた。方向性がよくわからない気もする。
そんな母が「作れそう」というのは、だいたいシンプルなアクセサリーや小物である。まあ母なら簡単に作れるんだろうなと私も思う。
というわけで、買わずに帰るのだが、そういう話をしたものを、母が実際に作るところを見た記憶がない。
自分も多少ものを作るようになってみてわかったのだが、ものを作るというのは「作れる技術」と「作れる時間」があれば成り立つものではない。
「作りたい」が必要なのである。
当時の母は日常的に手芸を楽しむというよりは、思い立ったら一気に集中してものを作る人であったように思う。「作りたい」に突き動かされてフリフリのドレスみたいな大作も作り上げてしまうのだ。
「そこに山があるから登る」という登山家だって登りたいから登るのである。公園の築山に登ったりはしない。登りたくないからだ。
「高値の花ほど燃えるぜ」というモテ男は男に飢えた女にわざわざ手は出さない・・・ということもないかもしれない。むしろそういう男に限ってそういう女と結婚しちゃったりするような気もする。
そう考えると、登山家だって築山に登っちゃったりするかもしれない。と考え始めるのが私の非常に悪い癖である。
とにかく、そこに「作りたい」がない限り「作れそう」なものたちは結局手に入らない。
後には「作れそうなものは、買っちゃいけない」という価値観だけが残る。
「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、親の価値観は無意識のうちに子にすりこまれる。それは時として呪いとなって子を苦しめるのである。
そんな私が、この前シュシュを買ったのだ。
ご存じだろうか、シュシュ。
髪の毛をまとめるゴムを布で覆ったようなもので、細く切った布を筒状に縫ってゴムを通して閉じればいいだけの、シンプルな作りだ。
絶対作れる。
でも、買う。
作りたくないから。
このシンプルな考えにたどり着くのに、長いことかかった。
シュシュの入った紙袋を手に、私は晴れ晴れとしていた。
私は自由だ!自由な風だぜ!
盗んだバイクで走り出したい気分である。
私は綿のようなフェルト羊毛で小さな猫を作ることができるが、フェルトボールを丸めてつなげただけのネックレスだって買っちゃおうと思っている。
しかし母は「元が羊毛なら、着なくなったセーターをほどいてほぐせばいいんじゃない」などと言うのである。まさかの原料攻めである。
「作れそう」の黒い影が盗んだバイクを追ってくる。
私は全力で逃げなければならない。
「作りたいか作りたくないか」を常に自分に問いかけよう。
とりあえず、間違って「作りたくないし欲しくもない」ものを買ったりしないように気をつけたい。