押したい欲求

「他人に知られたくない欲望を自分が抱いている」ということを、人はいつごろ自覚するのだろうか。
私の場合、その記憶は小学校の低学年の時である。
生まれて初めて路線バスに乗っていた。なぜだかは忘れたが私の親はおらず、友達と、友達の母親と三人であった。
私は目の前にあるボタンに釘付けになっていた。
「お降りの方はこのボタンを押してください」というあれである。
このボタンを押すとバスから降りられる、つまりバスを止められる。

押したい。

当時はわからなかったが、ボタンを見れば押したいと思うのが人間という生き物である。
そしてこの世のボタンはボタンを押すことによってもたらされる事態に応じて、ローリターンボタンとハイリターンボタンに分別することができる。ローリターンボタンの代表はテレビのリモコンあたりであろうか。ハイリターンボタンの代表はもちろん「核のボタン」である。
核のボタンはあまりにもスケールが大きいので日常的に目にする範囲でハイリターンボタンの例を挙げるとすれば、火災報知器のボタンであろうか。ハイリターンボタンは往々にしてリスクも大きいのである。
そんな中でバスのボタンは、正しく押せば世の中に迷惑をかけることもなく、バスという特殊大型車両を停止させることが出来る、ローリスクハイリターンボタンである。一バス停につき一人しか押せる人がいないというレア度の高さもハイリターンの所以であろう。
そんなハイリターンボタンに小学生にして初めて出会ったのである。

こんなとき「わあ、何このボタン!」とでも言えればよかったのだが、私は欲求を素直に表現できるタイプの子供ではなかった。まして友達の親と一緒なのである。しっかりしている、つまり欲求に安易に流されないところを見せたいではないか。

私はこの欲求を隠すことにした。そして降りるバス停が近づくと友達が慣れた手つきであっさりとボタンを押してしまった。たぶん友達もボタンを押すことを日頃から楽しみにしていたのだろう。当然の帰結とはいえ私は密かに落胆したのだが、それ以上に友達の母親の一言が衝撃であった。彼女はこう言ったのである。
「ショウコちゃんに押させてあげればいいのに」
今ならばボタンがあったら押したいと思うのが当然なのだと大人は認めてくれるのだということがわかるが、その時の私は子供っぽい欲求を隠したつもりが友達の母親に見抜かれていたという恥ずかしさでいっぱいになった。
その時友達の母親と言葉を交わしたかは覚えていないが、私がバスのボタンに特別な思いを抱くようになったのは、明らかにそれがきっかけである。

しかしこのような欲求を持っていたのが私だけではないということがわかったのは高校生の時である。
高校の通学に使うバスの中でのことだ。学校の前まで行くバスだから、朝はその学校の生徒でバスがいっぱいになる。事件はその車中で起きた。
ある日、誰も例のボタンを押さなかったのだ。
いつもボタンを押している強者がその日は乗っていなかったのかどうなのか、とにかくボタンは押されなかった。「ん?いいの?」「まずくない?」「通過しちゃうよ?」という空気が漂う中、高校生を満載しているバスなのだから運転手さんもバスを停めてくれてもいいようなものだが、バスはあっさりとバス停を通過してしまった。次のバス停でボタンを押した猛者を私は尊敬したい。次のバス停でぞろぞろと降りる生徒たちの間には
「だってあれはねえ」
「あれはしょうがないですよ」
「あれはああなっちゃいますよね」
「どうですか帰りに一杯」
というサラリーマンの哀愁に似た連帯感が漂っていた。多感な思春期の我々は、皆ボタンを押さねばならない、出来れば押してみたいと思っていながら、誰もその欲望をあらわにすることができなかったのである。

いい大人になった今でも、バスに乗るとボタンのことが気になる。降りる停留所が近づくとほんの少しだけど胸がどきどきする。「次は○○」というアナウンスを聞き終えてから10秒待つ。それで誰もボタンを押さなかったら、自分で押すと決めている。決めておかないと押す押さないの葛藤にさいなまれてしまいそうだからだ。アナウンスの途中ですぱーんとボタンを押すおばちゃんなんかのように葛藤なくボタンを押せる人になりたいのだが、こればっかりはどうやら無理なようである。

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