斉藤和義さんの「ずっとウソだった」のこと。

話題の「ずっとウソだった」。

曲は元々あるものだからいいとしても、
歌詞が直接的すぎて乱暴だし、
元の歌詞がところどころに残っていて
「くすぐったい黒い雨」とか意味がよくわからないし、
いかにも急ごしらえという感じだ。

斉藤和義さんは大好きだけど、あの歌は大嫌いだ」
と言った人がいたが、
元々斉藤さんの歌が好きでよく聴いている私としても、
いつもの、聴いていて自然と物語が頭の中に広がっていくような歌詞からは、確かに遠く離れていると思う。
元のいい歌が台無しになったと感じる人もいるのかもしれない。

私は電力会社の「安全です」という言い分を全面的に信じていたのにだまされた、とは思わない。
たぶん斉藤さんだって思ってはいないと思う。
なのにどうして、あんな歌をあのタイミングで世に出したのか。

あの騒動で思ったのは「芸能人がこういう意見を表に出すのには、こんな方法を取らなきゃいけないっていうのが実情なんだ」ということだ。
芸能界という、原発を批判することがとても難しい(らしい)場所にいる斉藤さんがあの歌を表に出したのは
「怒りの声をあげることさえも封じられていること」
に対する怒りがこめられているんじゃないか。
だから作品として昇華させないままの「声」を、敢えてあげてみせたんだと思う。
電力会社の名前まで挙げて「自分は○○に対して怒っている」と誰にでもわかるような形で。

菊地成孔さんは

何かを撃つ本質的な言葉の力において、わざわざこうして中指を突き立てた替え歌を作らずとも、斉藤和義さんには「歩いて帰ろう」というとてもステキな曲がありまして、これ<ポンキッキーズ>という児童向け番組の(確か)挿入歌ですが、老婆心ながら申し上げるならば、これをそのまま、まったくいじらずに歌った方が、現状に対する、痛烈な批評として、「ずっとウソだった」より、遥かに強い力を発揮したのに。と思うばかりですね。

と書いていた。
でも、あの替え歌に限っては、歌詞で聴き手に何かを伝えることよりも、自分の言葉を封じようとする見えない(斉藤さんには見えているのかもしれない)力に反発したい思いが斉藤さんを動かしたんじゃないかと思う。考えすぎだろうか。

もしかしたらその反発は今に始まったことじゃなくて、
震災前から感じていた不満を、この機会に乗じて表明しただけなのかもしれない。
小沢健二さんの言う「自分に都合のいいように緊急時を利用」することなのかもしれない。

それが正しいことなのかどうかはわからない。私は別にあの歌が好きじゃない。

でもそれとは別に、ああいう歌も歌えるし聴ける世界であって欲しいとは思う。

いつか、斉藤さんが今感じていることを本当の意味の「歌詞」にして、
そのための曲を作ってできた「歌」を聴ける日が来るのを待っている。