「無償の愛」という「理想」−文月メイ「ママ」のこと

文月メイ「ママ」という歌のことを知ったのは、たぶん誰かのツイートだったと思う。
「児童虐待を扱った歌で、内容が過激ということで放送禁止になったようだが、そこまでするほどのことだろうか」という旨のツイートだったと記憶している。
ふーんと思って、なんとなく調べてみた。

歌詞はこちら。

冒頭の「ぼくのことが邪魔なの?あのゴミ袋と一緒に捨てるの?」
のところで確かにちょっとぎょっとしたけど、第一印象としては「すごくいい歌だとも思わないけど、まあこれはこれでありなんじゃないかな」というものだった。YouTubeのコメント欄はおおむね好評。
「ぼくには、たった一人のママ 嫌いになったりしないよ」のあたりが心に響くのか
「どんな親でも、子どもは親を嫌いにはなれないものだ」
「自分は虐待を受けてきたけど、それでも親に愛して欲しかった、この歌に書かれてあることはよくわかる。自分もいま子育てをしているけど子どものことを大切にしなければと思った」
等々のコメント。
私はなんとなくだけど
「子育てに疲れてて子どもが時に憎く思えてしまっているようなお母さんがこの歌ではっと我に返ったりするのではないか」
と思った。そういう意味では、ギリギリのところにいる人を救うような歌にはなるのではないかと。
放送禁止ねえ、ふーん。やっぱり虐待って重いテーマだから受け入れられづらいのかなあ。

くらいに考えて、この歌に関してはそれっきりになっていたのだけど、その後たまたまこの歌への批判意見を目にする機会があって、いろいろ、かなりいろいろ考えさせられた。今一生さんという方のまとめたtogetterだ。
togetter-文月メイさんの歌『ママ』への感想
どうやら、過去に虐待を受けていた方からのツイートが主のようだ。
「虐待を美化している」という言葉に、最初はぴんとこなかったのだけど、読んでいくうちに、乱暴にまとめると、
「なんで子どもが無条件に親を愛さなければならないのだ、親を憎んで何が悪いんだ」
という意見が何となく見えてきた。(もちろんそれだけじゃないのだけど、とりあえず今はその話をさせていただく)
そしてその「親を憎む」ということがどんなに大変なことで、しかも世間に受け入れられづらく「親を憎んだ」人が苦労しているのかということも。

唐突に自分の話をするけれど、私は大人になってから「私は母親が嫌いだ」という結論を出すことによってある種の心の平穏を得た人間だ。
暴力を受けたこともないし、暴言を吐かれたこともない。衣食住にも不自由はしなかった。「かわいい」「好き」と言われて育った。でも、だからこそずっと「親は悪くない」って思っていた。漠然とした不満や自信のなさを抱えながら「親は何も悪くないはずなのに(だから自分が悪いんだ)」ってずっと思っていた。

大学生くらいのころに、いろんな出会いを通して「うちの母親は感情的な人なんだな」と客観視することができるようになった。そして「自分とは合わないタイプの人だ」とも思った。で、「そんな合わないタイプの子どもを育てるのは大変だっただろうな、腹の立つこともあっただろうに『好き』と言ってくれてたんだな」と母親を「理解」した。そうできたことで確かに楽にはなった。

だけどもう少し時間が経ってから「結局母親の『好き』は母親自身にとって都合のいい面しか見ていないから言えたことなのではないか」そして「見たくない部分は私が悪い、言っちゃいけないと思わせるようにしむけて『ないこと』にしていたのではないか」とか思うようになり、そう思ってみると「そういえばいい言葉ばかり記憶に残ってたけどあの時だってあの時だってそうじゃなかった」みたいなことが蘇り、まあ他にもいろいろ考えたことはあるのだけど最終的に「理解」はするけど「嫌い」という答えにたどりついた。
「あの人なりにせいいっぱいのことはやってくれた」という感謝の気持ちがないわけではない。だがどうしても私には「せいいっぱいやってくれたかもしれないけど、私にとっては害となることがいっぱいあった」と考えることが必要だった。客観視するだけではなく、子どもとしての私の主観を、持たなければならなかった。
それでようやく私は「(子どもとしての)私は悪くない」と思えるようになった。思えるようになってみて、それがどんなに自分にとって大切なことかを実感した。自分の性格の「悪い癖」を自分の責任だけで負わなくてよくなったことで、自分にはこんな「悪い癖」があると自分を責めずに見つめられるようになり、向き合って折り合いをつけていく気持ちになれた。もちろんそれで「悪い癖」がすぐに治るわけではないのだが「自分を責めず冷静に見つめられる」ことの力は大きい。
親が客観的に見てどんなに立派であっても、一生懸命であっても、その親を「嫌い」と言い捨てられるのは子どもの権利だと思った。

「母親が嫌いだ」という話は夫にしかしたことがない。そして夫はそれを全面的に受け入れてくれた。だから私は家ではかなりえげつない母の悪口を日常的に夫に言っている。

だが、世の中の大半の人は単純に「親は子どもが好き」そして「子どもは親が好き」だと思っているのも知っている。それはたぶん全体としては世の中が平和ってことだし、だから「ママ」みたいな歌に感動するって人もいるんだろう。別にそれはそれでいいと思っていた。

だから私は「ママ」を批判する人たちの勢いの強さに驚いた。批判と言うよりは、みんなこの歌を聞いてものすごくものすごく傷ついている。「親を憎むことでやっと心の平穏を手に入れたのに、台無しになった」という人もいる。この歌を支持する人が多いということもまた、傷つきの原因になっているようだ。
最初は「自分が親を憎んでいるんだから、構わず憎んでいればいいじゃないか」と思った。でも、読んでいるうちにそれって実はすごくすごく辛くて大変なことなんじゃないかと思い始めた。
「ごめんね、ママ」
「ぼくにはたった一人のママ 嫌いになったりしないよ」

「虐待されてきた経験があるが当時は確かに『ごめんなさい』と思っていた」という感想を目にした。理不尽な扱いを受けても、子どもの時はそれが親の一方的な理不尽だとはわからないし、それを受け入れようとする、自分が悪いと考える、たぶんそういうものなのだと思う。「親を嫌い」だと思ったからと言って自分が虐待されていたと考えているわけではないのだが、これに似た感情は、たぶん子どもの時の私の中にもあった感情だと思う。
でも虐待で深い傷を負った人にとってあの歌詞は、当時の自分のことや、辛かった経験を想起させるものであり(フラッシュバックしたという感想もあった)、ようやく親を否定できるようになった自分を否定されるものであり、「ああ、そうだったな」くらいに思える人はまだいいけど、ものすごく感情を揺さぶられてしまう人もいるんだと思った。
私が今自然に「親を嫌い」でいられているのは、機能不全家族みたいなものに多少の知識があって「そういうこともある」と思いやすかったことと、何より夫が味方になってくれたことによる。
虐待を経験した人がその経験を人に話して「親がそんなことをするはずがない」「そうは言ってもやっぱり親は大事でしょ」などと言われて更に傷つくということは多いらしい。セカンドレイプと言われるほどその傷つきは大きいそうだ。それと同じようなことがあの歌詞により起こっているのかもしれない。そしてそういうことがよく起こるくらい「親が子にひどいことをする」ことや「子が親を憎む」ことは一般の人には受け入れられづらいことらしい。「虐待」という事象が社会問題として広く世間に知られるようになった今でも、だ。

それに「憎む」というのはものすごいエネルギーを必要とすることだ。私も親を「憎んだ」時期があったが「自分が人を憎んでいる」という辛い状態(罪悪感とかじゃなくて、とにかく「辛い」のだ)を維持することに疲れて、結局そこは蓋をして「嫌い」のレベルに落ち着けた。それだって気持ちのいいものじゃない。私だってできれば親を嫌いたくはない。「嫌わずに済める親だったらどんなにいいか」と思う。
たぶん私とは比較にならないほどのエネルギーを「親を憎む、憎み続ける」ことに費やさなければならない人たちがいる。必死でその感情を維持して、もしかしたらその感情を心の支えとして生きているのだと思う。「憎いと思えるようになったから楽になった、これからはこれで生きていく」なんて簡単なものじゃない。割り切れたからって傷ついた心が無傷になるわけでもない。他人からの心ない一言で崩れてしまうような、危ういところを歩いているのだ。

あと思いも寄らなかったのは「(虐待している)親がこの歌を聞いて『お前もあれくらい思いやりがあれば』と言ってきた」という話。そうか、そういう使われ方もするのか。

そしてなによりこの歌に「感動した」という意見が多いことで、まるで世間から自分の存在を否定されたように感じる方がたくさんいる。

これは案外罪深い歌なのかもしれないぞ、と思い始めた。


だが、恐らく大勢を占めているであろう「感動した」という意見。私はこれを全否定する気持ちにはなれない。それがまたこの歌の罪深さなのだとも思うが、それについては後で触れる。

先ほど引用したtogetterをまとめた今一生さんという方のブログを少しだが読ませていただいた。
今一生さんのTwitterのプロフィールは「ライター・編集者」となっており、ブログも全部読んだわけじゃないので今一生さんの活動の全貌がつかめているわけではないのだが、親から虐待されて育った人々から公募した手紙を集めた『日本一醜い親への手紙』という本を出版されたりと、児童虐待の現実を世に知らしめようと活動なさっている方のようだ。

どうかと思ったところだけ引用するのも申し訳ないので、出来ればエントリ全文を読んでいただきたい(エントリ自体はとても興味深い)のだが、「正しい人は怖い 〜児童虐待防止CM&文月メイさんの『ママ』への恐怖」の中の一文。

 しかし、子どもの笑顔や「ママ、大ちゅき」を額面どおりに受け取る親は、子どもにとって気持ち悪い存在だ。

 子どもに必要なのは、親ではない。
 安心できる関係だ。
 安心できる人の前では、笑顔も言葉もいらない。

 自力ではメシも食えず、生きられない幼児の自己防衛の手段を見て、「この子は私を愛してくれている」などと勘違いする親は怖い。

 「自分を必要としてくれるから世話をする」という理屈は、「自分のことを理解してくれないなら世話なんかしたくない」という気持ちの裏返しだからだ。

「安心できる人の前では、笑顔も言葉もいらない」というのは確かにその通りだと思う。ただ「子どもの笑顔や「ママ、大ちゅき」を額面どおりに受け取る」ことは子育てという戦いのような日常を乗り切るために(特に子どもが小さいうちは)、一般論としては許してあげてもいいんじゃないかと思うのだ。
幼児を育てているお母さんのアンケートを見たことがあるが「子育てをしていて良かったと思うのはどんなときですか?」という質問に対して圧倒的に多いのが「子どもの笑顔を見たとき」だったことを覚えている。
私は子育てをしていないので想像でしかものを言えないのだが「この子は私のことが好きだ」とでも無理矢理にでも思わないとやってられないっていう時期ってあるんじゃないかなと思う。親として「子どもの命を預かり育てている」ことの重さや怖さは心に持っておかなければ危ないとは思うけど「この子は私を好きなわけじゃない、生きるために、私に気に入られようとしているんだ」とか考え始めたらどうしていいかわからなくなってしまいそうな気がする。
世の中の「平和な」家庭には「親子愛」っていう「思い込み」がガソリンとして必要な時があるし「ママ」をそういうガソリンとして受け取った人もいるんだと思う。「横でスヤスヤ寝ている子どもを見ながら号泣しました」とか「いつも叱ってばかりだけど、生まれてきてくれてありがとうって子どもを抱きしめました」っていう感想を見ると、みんな「うちの子を大事にしなきゃ」っていう思いを新たにしてるんだというのが伝わってくる。そこに意味がないとは言わない。

だけど。
「子どもは親を好きだ」という話なら何も児童虐待の歌にしなくていい。普通に家族愛を歌った平和な歌を作ればいいのだ。わざわざ虐待というテーマを選んだのには意図があるに決まっている。

歌というものはそれ単体で成立しているものであり、作者が何を意図したかまで加味する義理はないと思っているので、文月メイさんが何を思ってこの歌を作ったかにはあまり触れようとは思わなかったのだが、やはりこの人が何をしたかったのかちょっと見てみることにした。
文月メイさんのfacebook。

この曲に込めた思いを綴ります。
虐待のニュースを頻繁に耳にする昨今。自分の子どもを殺すという異常な行為、人間が人間でなくなる瞬間にあるものは「愛の欠乏」ではないでしょうか。子どもから親への揺るぎない「無償の愛」を、一人でも多くの心を失いかけている人に伝えたい思いから「ママ」が出来上がりました。

「人間が人間でなくなる瞬間にあるものは『愛の欠乏』」というところを読んで「この人の『愛』のイメージはものすごく健全なんだな」という印象を抱いた。
「健全な(というのもよくわからない表現だが)愛」を持っている子育て中の親が、見失いかけていた「健全な愛」を取り戻し子どもを再び「健全に愛せる」ようになる、ということはあるかもしれない。それは私がこの歌を最初に聴いたときに抱いた印象と同じだ。それは「一時的な愛の欠乏」と呼んでもいいと思う。

だが考えてみると、虐待の中には「そもそも愛が健全でない」ケースが少なからずあるのではないだろうか。それはもう「愛」と呼んでいいのかどうかわからない。「特殊な関係」とでも言おうか。「支配欲」「独占欲」「自己承認欲求」等々(たぶんまだまだいっぱいあるんだろうけど私の貧困な頭からはこれ以上の言葉が出てこない)の行きすぎた「異常な」感情が子どもを理不尽に追い詰め傷つける。
私自身の話で言えば「あれは母なりの愛だった」と言うこともできるし「あんなものは愛ではない」と言うこともできる。どちらでもいいのだが「思われてはいた」のだ。私は幼児の頃あまり集団適応が良くなかったのだが、もし子育て中の母に「子どもがこうなのは母親の愛が足りないからだ、もっと子どもを愛しなさい」みたいなことをいう人がいたら、うちはたぶんもっとめんどくさいことになっていたと思う。愛が「欠乏」しているとかそういう問題じゃないのだ。

「虐待を『人ごと』として考えてはいけない、状況次第では自分だって虐待をするかもしれないのだ」という発想がある。私もそれには全面的に賛成する。ただその時に想起するのは今書いたうちの前者の「健全な愛が、何らかの事情で機能しなくなる」場合ではないだろうか。無意識のうちに「状況さえ揃っていれば、自分は虐待せず健全な育児が出来る」と思っている。(いわゆる「虐待の連鎖」の場合は別の話だが。)
自分が「それなりに健全である」という前提で、自分が虐待をしないというレベルの話だけなら、それでいいのかもしれない。「状況が悪い」と思ったら、たとえば子どもをどこかに預けて息抜きするとか、しかるべき場所に相談に行くとか、経済的な逼迫を福祉の力で何とかするとか、なんらかの対処ができればいいのだから。もちろん、それに踏み切る難しさが現実にはあるとは思うけれど「自分が悪い」じゃなくて「状況が悪い」と考えられたら、そこの壁は少しは低くなるだろう。

でも、虐待という問題をもう少し他人事じゃなく理解しようとするならば、もう一つ「この世には、自分の想像もできないような『健全でない愛のある』あるいは『愛なんてない』『害となる』家族もあるし、それによって想像もできないほどずっとずっと長い間深く傷つく人がいる」という発想が必要なように思う。自分という地平の延長上にはすぐには見つけられないものを受け入れる力だ。
虐待に限った事じゃない、障害とか、病気とか、ありとあらゆることの「当事者でない」人間にはそれが絶対に必要だし、仮に自分が何かの「当事者」であっても別の何かの「当事者ではない」のだ。もっといえば「当事者」としてくくられている人たちだって個人個人の経験は同じじゃないし、そういう意味ではみんな自分以外の「当事者ではない」のだ。自分の理解や経験を超えたことを否定せずに受け入れる心構えを持つことはとても大事なことだと思うし、自分が持っているかはわからないけど、持っていたいと思う。

少し話が脱線したかもしれない。
「ママ」の歌う「無償の愛」を「健全な家庭で育っている、うちの子」に当てはめて自分の子への愛を深めるのならそれはそれで一定の意味がある。あまり深く考えず、単純にそう解釈している「健全な」人は意外と多いんじゃないかと思う。
私は「人には無償の愛がある」みたいな考えが「理想」として存在する世の中をむしろ肯定したい。これは親子関係に限った話じゃない(むしろ他人との関係かもしれない)し、突き詰めると「無償の親切」くらいの言い方が正しいのかもしれないが、やっぱり一番上に「理想」はあってもいいじゃないかと思っている。そういうものは、人の心を温かくしたり、支えたりすると思う。
ただそれはあくまで「理想」であり「常識」ではない。「だったらいいけど、なかなかそうはいかないよね」くらいでとどめておく程度のものだ。
あの歌で「虐待されても、子どもは親を愛するものだ!無償の愛だ!」という一般化がなされそれが「常識」になるとすると、それはとても危険だし、仮にそこまでの影響はないにしても、あの歌が世間に受け入れられているという事実だけで、虐待の渦中にいる子ども達も、それを生き延びた大人達も、追い詰められてしまうのかもしれない。それがこの歌のなによりの罪深さだと思う。

そんなことを考えて「ママ」の歌詞を改めてじっくり読み直してみた。

「ゴミ袋に入れて捨てられた」となると、語り手の子どもはたぶん乳児〜幼児くらいだろう。「ママ、だーいちゅき」の時期だ。
それがいきなり
 「生きることが辛いの?頼る人が誰もいないの?」
とまるでカウンセラーのような達観したことを言う。虐待当時者だとしたら生き延びてかなり大きくなって、散々悩んで苦しんで、自分から親を切り離して考え、更に親を許すくらいの心持ちにならないとママには言えない言葉だろう。
 「ごめんね、ママ、なにもわからなくて、なにもできなくて」
 「ぼくが大きかったら 助けてあげられたのに」
と親をいたわるようなことも言う。
「自分も虐待を受けていたが、確かに親を助けてあげられたらと思っていた」という感想はあったが、乳幼児の言葉ではないだろう。
 「弱虫なママは 一人じゃ生きられないでしょ」
となると共依存の関係にある人の言葉だ。一人じゃ生きられない弱虫なママが子どもを産んで子どもに依存して虐待となるケースは確かにあるだろうが、これも幾つになったら言えるセリフなのだろうと思う。外野の視点なんじゃないかという気もする。
 「神様が決めたの?ぼくは生きちゃダメって」
好意的に解釈して「親は子を選べないし、子は親を選べない」という意味ではまあ「神様が決めた」と言っちゃってもありなのかもしれないけど…お前天使になったんだろ、神様に聞けよとか思っちゃダメですかね。すいません、イジワルババアモードがでました。
 「ぼくにはたったひとりのママ 嫌いになったりしないよ」。
「まだ親を憎むことを知らない幼い子どもの言葉だ」と言われればまあそうですかとしか言えないのだが…初めの方に書いたので省くが、この言葉は実に罪深い。
そして、やっぱり一言くらいは
 「痛かったよ」
 「怖かったよ」
的な言葉を入れてもよかったのではないかという思いが残る。虐待というテーマから痛みとか苦しみという要素を取り除いちゃうのは、ちょっとなあ。

と、いろいろいちゃもんをつけてみたのだが、何が言いたいかというと、
「断片的な知識をつなぎ合わせてそれっぽいものにしている」という印象を受けたということ。
「天使になったので全部わかるし全部許せる」というのではちょっと都合がよすぎやしないか。
「虐待を受けた一人の子どもの声」という一貫したメッセージになっていない気がするんですよね。その「確かに虐待のことを言ってるんだけどいろんな視点を乱暴にぶっ込んでいる」というところが、人を傷つける一つの原因になっている気がする。

ここで、もう一つ虐待をテーマにした歌を紹介したい。
イクラさんという方の「ヒカリ」

歌詞はイクラさんのブログより。転載OKとのことなので、歌詞を転載させていただく。

「ヒカリ」
作詞曲:イクラ
 
それでも あなたはヒカリだった
まるで闇のような
わたしは 裸足で追い掛けてた
生きるために
 
「要らない」って言われた
「消えちゃえ」って言われた
「お前さえ居なければ」と 手を挙げられた
「ガラクタ」って呼ばれた
「クズ」って呼ばれた
傷付きたくなくて 平気なフリしてた
 
淋しかったよ 哀しかったよ
ずっとずっと あなたに手を伸ばしてたよ
苦しかったよ 切なかったよ
ずっとずっと あなたの夢ばかり見てた
 
 
それでも わたしは映らなかった
あなたの瞳の中に
わたしの声は 届かなかった
あなたの胸に
 
「見るな」って言われた
「触るな」って言われた
「咎められなければ 殺したい」って首を絞められた
「お前は生きてることが 罪だ」って言われて
わたしはわたしの 命を憎んだ
 
泣きたかったよ 叫びたかったよ
ずっとずっと あなたに振り向いて欲しかった
大好きだったよ 大好きだったよ
ずっとずっと あなたに殺して欲しかった
 
 
それでも わたしは生きているよ
あなたと違う世界で
わたしは 光になれるかなぁ
木漏れ日のような
木漏れ日のような


これ、聞く人が聞いたら「これこそ無償の愛だ!」ってならないのかなって気がして心配になるんだけど(「大好きだったよ」とかあるし)、やっぱり「一人の人間の言葉」として胸に突き刺さると言う点で「ママ」とは大きく違う。めったに泣かない私だが、ちょっとうるっと来た。「感動」っていうのとも違うな。「痛み」が本当に痛いほど伝わってきて、でも生きる希望もちゃんとある。「生きた人間の言葉」っていうのも大きいのかもしれない。
イクラさんは虐待の当時者の方らしいが、それを知らずに聞いても完成度の高い、力のある歌だって思う。いったいどのくらいの葛藤(という一言で片付けるのも申し訳ない気がする)を経て、こういう言葉を紡ぐに至ったのだろうと思う。恨み節になったっておかしくないのに(たぶんそうなっていたら当事者でない人には受け入れづらいものになっていただろう)、ぐるぐると渦巻いているであろう感情をバランス良く抑制して、きちんと「光」を感じさせる歌になっている。

どこかの歌詞を抜き出すのは抜き出さなかった歌詞を軽視してしまっている気がしてためらわれるんだけど、敢えてやらせていただくと、淡々と列挙される親からの行為の描写は圧倒的な威力を持って迫ってくる(知識としてある程度知っていても、具体的な言葉の力は大きいと実感した)し、だからこそ「淋しかったよ 哀しかったよ」「苦しかったよ 切なかったよ」というストレートな言葉が胸に刺さるし、「大好きだったよ」が凄みをもった言葉として響く。(その前に「あなたに手を伸ばしてたよ」「あなたの夢ばかり見てた」「あなたに振り向いて欲しかった」と何度も「ヒカリ」を求める思いが出てきた後の「大好きだったよ」だから余計に)。
そして「わたしはわたしの 命を憎んだ」とまで言ったあとに「それでも わたしは生きているよ あなたと違う世界で」「わたしは 光になれるかなぁ」と希望を持って終わってくれる。見逃せないのは「あなたと違う世界で」というところ。「それでも わたしは映らなかった あなたの瞳の中に わたしの声は 届かなかった あなたの胸に」と言えるところまで行って見つけた「あなたと違う世界」なのだろうなと。求めたのは「ヒカリ」で、自分が目指すのは「光」だというところも、思うところあっての使い分けなのかなと思うのは深読みのしすぎだろうか。ここにあるのは現実的な重みを持った「人の心の強さと希望」だ。
どこまで語れば十分なのかわからない。勝手な思いを書かせていただいた。

「当時者でなければ、リアルを描けない」とは思いたくない。私は人間の想像力を信じたい。でもやっぱりこういうテーマは、当時者の言葉をきちんと聞かないと扱えないんだろうな。「ずっとずっと あなたに殺してほしかった」なんて言葉はたぶん想像の世界からはそうそう出て来ない。少なくとも私には無理だ。完全にノックアウトされた。文月メイさんがどのくらい虐待について知っているのか私は知らないが、どういう知識の仕入れ方をしたんだろうとは思う。

で、再び「ママ」の話に戻るんだけど、確かに「この歌はいかがなものか」とは思うのだが「この歌が存在してはいけないか」と問われると、私は言葉に詰まる。
私が取り上げた話で言えば、

・道を踏み外しかけた「健全な愛が一時的に欠乏している親」が「健全な愛」を取り戻す可能性
・「健全な家庭で健全な育児をしている親が自分の子どもへの愛を深める」
という功罪の「功」と
・「虐待をされても子どもは親を愛するもの」というのが常識になる危険性
・虐待を生き延びてきた方達を否定し深く傷つける
という功罪の「罪」。

うーん、やはり「罪」の深さの方が大きいかなとは思う。絶対。「功」に関しては虐待をテーマにしなくても得られる気がするし。
でも、ものすごくものすごく乱暴に言うと、最近よく聞く「○○が傷つくからやめてください!」っていう話との違いが、あるような気はするんだけど、うまく見つけられない。「あまりにも傷つきが大きすぎる」と言うことはできるんだけど。「社会的影響の大きさ」っていうのも確かにそうなんだけど。「一つの歌の存在を否定する権利」が誰かにあるのかと聞かれたら、正直わからなくなる。もし私の身近に「あの歌に深く傷ついた人」がいて話が聞けたら、事の重大さを実感して考えが変わるんだろうか。
あ、そうか、他人がどうこうするんじゃなくて、文月メイさん自身が「あの歌はまずかったと思います」って言ったら、ちょっとは救われるのかもしれない。でもfacebook見た限りどうやら全然そうはなってなくて、むしろ「広めて行きたいです!」ってなってるらしいってところが、一番の問題なのかな。傷つく人と広める人の溝は深まるばかり。難しい。この歌がいったい今どれほどの知名度なのか知らないけど、ラジオとかで歌ってるらしいし、あまり「感動した!」派が増えるとやっぱり怖いです。すごく。